慈雨と甘雨 5
そういう新知との出会いで次男蟻は固まる。カガクの次に現れたの小さな日常の結晶体、進化した姿だった。
部屋に運ばれ柔らかい布団の上にうつぶせにされ、背中に何かを塗られた。目線から少し見える外はまだ赤く光っている。太陽が地面に降りてきたときにも同じ光景が見えそうだった。
背中に激しい痛覚が走った。何かを塗られて数秒経っていた。痛覚が遅れるほどの衝撃が体に加わったということなのだろう。痛みで目を瞑れど、瞼の裏側の薄い膜にこびりついた赤と黒の大地は消えることなく、むしろ黒い背景に映りだされるからか、その新知の大地は知らない感情を運んでくる。
そういうわけで痛みに耐え、目を強引に開いているとその次男蟻の様子を勇敢に思ったのか、周りにいたおうのうちの一匹が泣きだした。体は他のおうより小さかった。
次男蟻が彼女(あの家のおばあさんだ)から話を聞いて飯を食べられなくなったように、あの小さなおうに次男蟻の痛々しいだろう背中は何か強烈な印象を与えるだろう。
それは飯を食べられなくなるものではないだろうが、同じような、些細な日常に違和感を覚える類のものだと痛みの中次男蟻は静かに考えていた。
しきりに聞こえるガスタンクという単語の意味は分からないが、おそらくあの赤いもの元の名前で、それがどういうわけか燃えている。カガクが関係しているかもしれない。カガクは無限大の可能性を秘めている。家を浮かせられるのだからものを燃やすこともできよう。
それでもあの赤の凄まじさ。視界にこびりつくあの色を作り出したガスタンク。
何で読んだのか、誰かから聞いたのかわからないが、青の反対色は赤だと思っていた。あの凄まじい赤の反対がうみの青なのだとしたら、うみはかなり落ち着いたものなのだろうか。
そういう思考が続く中で、あの家にいたころのような、うみに行きたいという願望はかなり小さく存在しているようで、それ以上にこの新知を彼はどう受け止めているのか、そちらが気になって仕方がなかった。痛む背中に意識を向けないように顔に精一杯の力を籠め、拳を強く握りしめ、あの変な話し方のおうを探した。
周りのおうの制止を振り払いながら無数のおう一匹一匹を見回し、部屋の端にあいつを見つけた。青い目が目印になった。
「君が会った、…奴はどこにいったんだ…。教えてくれ、今すぐ。僕はあいつに会わないといけない」
痛々しい背中を背負った次男蟻の振り絞るかのような言葉に怖気づいたのか、青い目をしたおうは何も言えないようで、ただ指をさした。
「向こうの方角に進んだら、し、ししししろい道が見える。そ、そそこをずっとす、すすんだら奴がいたんだ。黄色い、ぼ、棒に登ろうとしてたから、と、と止めたんだ。そして話した。そのあとはし、知らない」
白い道、そう呟き、青い目をしたおうがさした方角に行こうと部屋を出た。背中の痛みから想像するに怪我はそうとう深いもののようだが、その痛みより、赤い炎の影を目の裏側から消すことが、彼の話を聞くことに意思は支配されていた。
むらの中は赤い炎の残像がこびりつき、そこに生えている健全な草にもその色がにじんで見えた。背中の確かな痛みがその思い込みを加速させるようで、存在しない赤い色彩が現実味を帯びてきた。
痛ましい背中を背負って歩く次男蟻を止めようと数匹のおうが寄ってきたが、次男蟻の鋭い目つきに怖気づくか、強い決心を抱いた彼の進行に逆らうほどの度胸がなかったのか、どのおうも次男蟻の進行妨げる障害にはなりえなかった。
そういうおうたちの対応とは裏腹に、頭上に浮かぶ太陽は次男蟻の進行を助けるようにその熱量を雲を増やすことで減らした。真夏の身を焦がすかのような猛暑の熱が今、背中に降り注いだなら、ナイフが降ってくるのと同様なほどの損傷を次男蟻の背中に与えただろう。弱まった太陽光でも多少痛む。
昨日草を掻き分け入ってきたむらの入り口を探していると六匹ほどのおうがなにかを隠すように草の壁の一か所に固まっていた。おうたちのなんともわかりやすい行動によって入り口はすんなりとみつかり、その一か所めがけて体を進めた。背中の痛みは予想以上に次男蟻の歩行を邪魔することはなかった。
「そこをどけ」
「おまえ けが している とおる だめ」
「こんなのどうでもない」
「けがだけ じゃない ガスタンク おまえ こわした かも セキニン ある」
「僕じゃない、僕じゃないんだ。そもそもガスタンクというものすら知らない。君たちのカガク、に対する知識は一切ないんだ」
「知識 ないから あやしい 子供 よく こわす おまえ 子供」
「セキニン だいじ」
「そう セキニン とれ」
「まるやき セキニン とれ」
そういって六匹のおうは身を固くし、頑なに道を開けることを拒んだ。
「それならこの辺から出ることにするよ」
そういって少し向こうの色が濃くなるほど密に生えていた草の壁からから進もうとすると同じような体をした六匹のうちの一匹が次男蟻に寄り、
「正しい 道 帰れる 少し違う 道 迷う 死ぬこと ある 危ない」と言い、爛れた次男蟻の背中を見ないよう目をそらしながら制止してきた。
「ここから外にでたら、危ないのか」
「そういうカガク」
この会話がどうもあの家の決まり、赤い花には近づいてはいけないというものに似ているように思えて、おうの言葉はおそらく真実なのだろうと経験から推測できた。
「おそらく君の言っていることは本当なんだろう。でも僕はここから行くことにする。僕はこれから帰るんじゃないからね」
そういうことじゃないと言いたげなおうの顔をまだ赤い炎がこびりついた瞼に上書きする形で焼き付け、この未知な世界での最初の遭遇の記録をした。