慈雨と甘雨 5
不自然な恰好で寝ていたからか、体のいたるところに不具合を感じながら目を覚ますと向こうの椅子に一匹のおうが座っていた。
「クミンでもどうだ。…め、目が覚めるぞ」
そういって机の上に置いてあったカップを示した。クミンというものは知らないが、その小さなカップから漂う匂いは燃えているかのように香ばしかった。
「君は、他のおうたちのような話し方をしないんだな」
布団から起き上がると外の太陽が見えた。その暖かい光から早朝ではないことがわかる。
「も、元は、そうだった。で、でもある奴と会って、こうなった」
おうの話し方は次男蟻や長男蟻に近いものだったが、少しばかり違和感を覚えた。
「君のその…話し方は僕のものに近いんだが…、その詰まるような話し方は知らない」
「お、おれもわからない。奴と会うまではこうならなかった。や、奴の話し方がす、好きで真似ていたら、こ、こうなった」
「その奴、もそういう話し方なのか」
おうは次男蟻をじっと見つめ、いいやと小さく言い、次男蟻が座っていた布団の近くまで音を立てないよう注意するかのような歩き方で寄ってきた。
「や、奴とおまえは似てる。話し方も、か、体つきも」
奴とは彼のことかと、次男蟻は察した。
その後、クミンという飲み物を飲みながら、おうから奴、彼についての話を聞いた。おうの詰まるような言葉遣いは、言葉の先頭によく現れ、その度にその音に気を取られ、話の中核を読み外しそうになった。本を読んでいるときに他の子供蟻が目の前でちらちらと遊んでいるときにも同じようなものを感じたことがある。
おうの話し方の違和感に興味を抱いたのか、次男蟻はおそらく長男蟻のことであろう生物についての話を熱心に聞いていた。彼についてそこまで興味があったわけではなく、あくまでもおうの話し方の方に興味があった。
「つまり、君のその話し方は、奴の話し方を真似たことの副産物ということなんだね」
「そ、そういうことになる。こいつのせいで仲間たちと壁ができてしまったような気がする。そ、そんなとき、お前がきた。奴にそっくり…す、少し小さいが、は、話し方は同じだったから、す、すぐ仲良くなれるとお、おおお思った」
次男蟻は外の世界で初めて出会った同じ言語、話し方を共有するおうに親近感のようなものを感じるかと思い、話を聞いていたが現れたのは全く反対ともとれるものだった。むしろ他のおうの方が近く感じる。
それは次男蟻の顔にも現れているようで、話を続けるおうの顔はどんどんこわばっていく。おそらく次男蟻は今、変なものを見る目でおうを見ている。
「もういいかな、どうも僕は君を好きになれない」
理由はわからないが、次男蟻はまだ浴びていない朝日を浴びるために外に出た。
昨夜の地図を出したおうを探しにむらの中を、目的をもって歩いていると、昨日見たカガクが確かにそこにあることがわかる。日常的にみてきた太陽の下で繰り広げられるカガクの異様さはかなりの違和感を次男蟻に運んできたようで浮かぶ家や、そこらへんに落ちている石をおいしそうに食べているおうたちの姿を見まいと、目線を日常的な太陽や草に当てた。
カガクというまったくの未知をうまく許容できていないことが実体験によって認識されると、先ほどのおうの話し方を許容できなかったことも少し納得がいった。同じような話し方の中に紛れる新たなものに異常に反応し、嫌うのは、次男蟻のつまらない根っこに由来しているのだろう。うみというものを探しに、定義しに行くのは次男蟻の仕事ではないのかもしれない。
水汲み場だろうか、水たまりの傍についた次男蟻はそこに自分の姿を映し、その姿を眺めた。自然が作り出した風で揺れる水面に映る彼に似た体を持つ自分の姿をまじまじと眺めているうちに一つ、うみを探すことより強い欲求が現れた。
彼はこの新知の世界を
どう感じているのか
次男蟻が過ごし、生きてきた世界と同じ場所で同じ価値観に触れてきた彼は、カガクや変な話し方をどう受け取るのか。
彼の気まぐれな性格から、そういう新知にうまく対応し、自分のものとして得意げに地面を探検しているかもしれない。もしかしたらある日のように空を眺めながら、ふと思い立ち空に駆け上り、小さな、大きな黒い体をどうにかして飛ばし、空中から花見でもしているかもしれない。それこそカガクは役立つだろう。
しかし、そうではないかもしれない。次男蟻のように戸惑い、一種自衛のためにあらゆる新知を遮断し湿っぽい洞窟や乾いた穴の中に隠れているかもしれない。
次男蟻が水たまりの周りを二,三周ほどぐるぐると回っていると昨夜地図を持ってきたおうがすぐそばの家の中にいるのが見えた。青い壁が特徴の小さな家だったが、そこにはまっている窓はかなり立派なもののようで、昼過ぎになろうとしている太陽の光が透明な窓に模様を描き、その向こうのおうの顔を色濃く染め上げる。
次男蟻があまりにも強く、長くおうのことを窓越しに見ていたからか、窓の向こうのおうが次男蟻に気づいた。座っていた椅子から飛び上がり透明な窓に両手をついた。突撃する様子が窓に振動を与え、ここからでは音は聞こえないが、みしっや、だんっといった音を立てているだろう。おうは一体なぜ窓に突撃したのか。次男蟻はまたもおかしな光景に出会った。本には載っていない。そもそもおうの存在が本に載っていない。太陽の模様を揺らすように窓をがたがたとたたくおうの目は青ではない。次男蟻によく似た純粋な黒色をしていた。
おうは何か言葉を発しているようで、しきりに窓を叩くような動作を繰り返していた。
おうが窓を叩くのをやめ、部屋の向こうに消えた時、背中に強い衝撃を感じ、その衝撃は途端に熱に変わった。その熱は、暑く熱せられた葉っぱや、お湯などの日常的なものとは到底比べられないほどのもので、例える対象が次男蟻の中には存在していないかった。そしてその熱量が痛覚に変換されることは一切ないまま、次男蟻はその熱が運んできた風圧に体を流され地面にくっきりと顔の形を押し付けた。どれも一瞬の出来事で彼の意思に左右されるものはそこにはなかった。
視界が真っ白な幻想的なものに包まれ、気温や湿度を一切感じない、夢のような世界から一気に引き戻されると、視界は見覚えのあるカガクを捉えた。家が浮遊している。
「意識 もどった 大変だった」
無数のおうが集まり、次男蟻を見ている。いや、そうではない。多くのおうは次男蟻を見ていない。
「ガスタンク 爆発した 普通 起きない 何か した」
次男蟻は覚めたはずの目を開き、おうの言葉を聞いていたが、それ以上の理解はできず、言葉だけが次男蟻とおうの間に浮遊する。体を起こし、状況を整理するために周りを見渡したのだが、これがまずかった。次男蟻の視界に広がったのは先ほどまでののどかな水たまりの風景ではなく、一面の草が黒く染まり、その中心で何かが赤く染まっているものだった。これが燃えているということだと認識するには、次男蟻の記憶の中の、小さな火の姿から想像力を膨らませる必要があるが、水一滴からうみを想像することと同様に不可能だった。次男蟻の目には赤が延々と広がる。
「クミンでもどうだ。…め、目が覚めるぞ」
そういって机の上に置いてあったカップを示した。クミンというものは知らないが、その小さなカップから漂う匂いは燃えているかのように香ばしかった。
「君は、他のおうたちのような話し方をしないんだな」
布団から起き上がると外の太陽が見えた。その暖かい光から早朝ではないことがわかる。
「も、元は、そうだった。で、でもある奴と会って、こうなった」
おうの話し方は次男蟻や長男蟻に近いものだったが、少しばかり違和感を覚えた。
「君のその…話し方は僕のものに近いんだが…、その詰まるような話し方は知らない」
「お、おれもわからない。奴と会うまではこうならなかった。や、奴の話し方がす、好きで真似ていたら、こ、こうなった」
「その奴、もそういう話し方なのか」
おうは次男蟻をじっと見つめ、いいやと小さく言い、次男蟻が座っていた布団の近くまで音を立てないよう注意するかのような歩き方で寄ってきた。
「や、奴とおまえは似てる。話し方も、か、体つきも」
奴とは彼のことかと、次男蟻は察した。
その後、クミンという飲み物を飲みながら、おうから奴、彼についての話を聞いた。おうの詰まるような言葉遣いは、言葉の先頭によく現れ、その度にその音に気を取られ、話の中核を読み外しそうになった。本を読んでいるときに他の子供蟻が目の前でちらちらと遊んでいるときにも同じようなものを感じたことがある。
おうの話し方の違和感に興味を抱いたのか、次男蟻はおそらく長男蟻のことであろう生物についての話を熱心に聞いていた。彼についてそこまで興味があったわけではなく、あくまでもおうの話し方の方に興味があった。
「つまり、君のその話し方は、奴の話し方を真似たことの副産物ということなんだね」
「そ、そういうことになる。こいつのせいで仲間たちと壁ができてしまったような気がする。そ、そんなとき、お前がきた。奴にそっくり…す、少し小さいが、は、話し方は同じだったから、す、すぐ仲良くなれるとお、おおお思った」
次男蟻は外の世界で初めて出会った同じ言語、話し方を共有するおうに親近感のようなものを感じるかと思い、話を聞いていたが現れたのは全く反対ともとれるものだった。むしろ他のおうの方が近く感じる。
それは次男蟻の顔にも現れているようで、話を続けるおうの顔はどんどんこわばっていく。おそらく次男蟻は今、変なものを見る目でおうを見ている。
「もういいかな、どうも僕は君を好きになれない」
理由はわからないが、次男蟻はまだ浴びていない朝日を浴びるために外に出た。
昨夜の地図を出したおうを探しにむらの中を、目的をもって歩いていると、昨日見たカガクが確かにそこにあることがわかる。日常的にみてきた太陽の下で繰り広げられるカガクの異様さはかなりの違和感を次男蟻に運んできたようで浮かぶ家や、そこらへんに落ちている石をおいしそうに食べているおうたちの姿を見まいと、目線を日常的な太陽や草に当てた。
カガクというまったくの未知をうまく許容できていないことが実体験によって認識されると、先ほどのおうの話し方を許容できなかったことも少し納得がいった。同じような話し方の中に紛れる新たなものに異常に反応し、嫌うのは、次男蟻のつまらない根っこに由来しているのだろう。うみというものを探しに、定義しに行くのは次男蟻の仕事ではないのかもしれない。
水汲み場だろうか、水たまりの傍についた次男蟻はそこに自分の姿を映し、その姿を眺めた。自然が作り出した風で揺れる水面に映る彼に似た体を持つ自分の姿をまじまじと眺めているうちに一つ、うみを探すことより強い欲求が現れた。
彼はこの新知の世界を
どう感じているのか
次男蟻が過ごし、生きてきた世界と同じ場所で同じ価値観に触れてきた彼は、カガクや変な話し方をどう受け取るのか。
彼の気まぐれな性格から、そういう新知にうまく対応し、自分のものとして得意げに地面を探検しているかもしれない。もしかしたらある日のように空を眺めながら、ふと思い立ち空に駆け上り、小さな、大きな黒い体をどうにかして飛ばし、空中から花見でもしているかもしれない。それこそカガクは役立つだろう。
しかし、そうではないかもしれない。次男蟻のように戸惑い、一種自衛のためにあらゆる新知を遮断し湿っぽい洞窟や乾いた穴の中に隠れているかもしれない。
次男蟻が水たまりの周りを二,三周ほどぐるぐると回っていると昨夜地図を持ってきたおうがすぐそばの家の中にいるのが見えた。青い壁が特徴の小さな家だったが、そこにはまっている窓はかなり立派なもののようで、昼過ぎになろうとしている太陽の光が透明な窓に模様を描き、その向こうのおうの顔を色濃く染め上げる。
次男蟻があまりにも強く、長くおうのことを窓越しに見ていたからか、窓の向こうのおうが次男蟻に気づいた。座っていた椅子から飛び上がり透明な窓に両手をついた。突撃する様子が窓に振動を与え、ここからでは音は聞こえないが、みしっや、だんっといった音を立てているだろう。おうは一体なぜ窓に突撃したのか。次男蟻はまたもおかしな光景に出会った。本には載っていない。そもそもおうの存在が本に載っていない。太陽の模様を揺らすように窓をがたがたとたたくおうの目は青ではない。次男蟻によく似た純粋な黒色をしていた。
おうは何か言葉を発しているようで、しきりに窓を叩くような動作を繰り返していた。
おうが窓を叩くのをやめ、部屋の向こうに消えた時、背中に強い衝撃を感じ、その衝撃は途端に熱に変わった。その熱は、暑く熱せられた葉っぱや、お湯などの日常的なものとは到底比べられないほどのもので、例える対象が次男蟻の中には存在していないかった。そしてその熱量が痛覚に変換されることは一切ないまま、次男蟻はその熱が運んできた風圧に体を流され地面にくっきりと顔の形を押し付けた。どれも一瞬の出来事で彼の意思に左右されるものはそこにはなかった。
視界が真っ白な幻想的なものに包まれ、気温や湿度を一切感じない、夢のような世界から一気に引き戻されると、視界は見覚えのあるカガクを捉えた。家が浮遊している。
「意識 もどった 大変だった」
無数のおうが集まり、次男蟻を見ている。いや、そうではない。多くのおうは次男蟻を見ていない。
「ガスタンク 爆発した 普通 起きない 何か した」
次男蟻は覚めたはずの目を開き、おうの言葉を聞いていたが、それ以上の理解はできず、言葉だけが次男蟻とおうの間に浮遊する。体を起こし、状況を整理するために周りを見渡したのだが、これがまずかった。次男蟻の視界に広がったのは先ほどまでののどかな水たまりの風景ではなく、一面の草が黒く染まり、その中心で何かが赤く染まっているものだった。これが燃えているということだと認識するには、次男蟻の記憶の中の、小さな火の姿から想像力を膨らませる必要があるが、水一滴からうみを想像することと同様に不可能だった。次男蟻の目には赤が延々と広がる。