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慈雨と甘雨 4

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次に目に強い刺激を感じる頃には、同じ姿勢を続けていたせいか、体中が悲鳴を上げていた。体の周りを薄い一枚の膜越しに広がる黒いトンネルからほのかに香る赤い花の香りは気分をリラックスさせることは一切なく、すぐ頭上に地獄か天国かへの案内状が、存在していることだけを的確に次男蟻に伝えていた。月明りが浸透してこないため、黒いトンネルが茎や葉でできていることすら認識できず、穴に入る前の情景を一たび忘れれば、自分の居場所を特定するものは一切存在しないことが、次男蟻の幼い恐怖心を刺激し、這い進む、速度を遅くさせた。恐怖心から足が速くなるといった描写は小説によくあるが、それは、無から有への変化、未知の物がそこに確かに存在していて、それが自分を脅かしたり、殺したり、あるいは半殺しにされたり、といった自分への害を恐れるもので、月明りが示していた茎や葉の消失に伴う恐怖とは相反する恐怖だった。

 そういう恐怖を感じながら、なんとか時間をかけ、命を落とすことなく穴を抜けきったようで、目に伝わる刺激が懐かしかった。伏した体が地面に接していることを何度も何度も確認し、自分の体の存在を確かめながら、瞑った目に入ってくる月明りを神のように崇め、小さな声を出しながら、未知を潜り抜けた英雄である自分に酔っていた。
 しばらくしてこわばっていた体がほぐれ、仰向けになるように体を動かし、月明りを腹にもあてた。穴の中には月明りは届いていなかったことから、太陽もまたそう容易に届くことはないことがわかると、地面の湿った土の感触を、穴を出て初めて思った。そうしてその湿った土が自分の腹にも付着し、その土が穴のなかでの恐怖を思い出させるような気がしたのだ。しかし、月明りは昼間の太陽のように、蟻の黒い体を熱することはなく、そのため、付着した土は吸水性の高い高級な布のようになかなか乾かなかった。
 次男蟻は持ってきた鞄の中から布を一枚取り出した。あの家では布はかなりの高級品で、手のひらサイズの布が一枚あれば、望むものの大半は手に入った。この布は以前誰かにもらったものなのだが、その人物の詳細な姿、名前は次男蟻の頭の中で見事に消え去っていた。その消失具合が、本当に見事で、その人物の話す言葉の調子や、恰好はきちんと思い出せるが、経年劣化して表紙が擦れてしまった本のように名前だけが綺麗に見えなくなっていたのだ。
 その布で腹についた土を払い落とし、ついでに、向こう側の世界でついたものを全て落とすため、黒い体を丁寧に磨き上げた。細かい塵や皮脂が取れたのか、布は黒ずんで使い物にならなくなった。試しに、そばに生えていた草を擦ってみたが、草は月明りの中でもはっきりとわかるほど汚れた。向こう側とのつながりはここにすべて置いていく。そういう意思が行動の中で生まれ、持ってきた鞄を草の根元に置き、うみを目指して先を急いだ。


 しばらく進んで気が付いたが、うみがどこにあるのか、あの薄い本には書かれてなかった。幸運なことに壁の向こう側は見たことのある草や木によって作られていたため、一歩一歩を慎重になり、死と隣り合わせという実感はなかったが、それでもこの先の地図など一切なく、そもそもうみがこの近くにあるのかさえ、わからなかった。
 そういうわけで次男蟻はまずこの世界の住民を探すことにした。言葉が通じる可能性は、あの家での生活で分かっていた。蟻以外の鳥や、バッタなども同じ言語を共有していた。ある程度の意思疎通は図れる。
 しかし、先生役の蟻が言っていた赤い花には毒があるということが真実であったことから、赤い花の向こうには天敵がいるということが、一歩進むごとに真実味を帯びてきていた。穴を抜けてまだ生物とは出会っていない。最初に出会う生物が、これまでみたことのない小説に出てきそうな恐ろしい生物である可能性は否定できない。逆に見た目は怖くとも、優しい生物との対面を望む。
 情報を集めることはうみへ近づくための一歩であるが、同時にうみへの定義が完成してしまう懸念もあった。次男蟻を含め、あの家付近にはうみはない。大きな池はあるが、その色はあの本にあったような青、ではなかった。
 仮にこの近くにうみがあった場合、この近くに住む生物たちにとってうみは生活の延長上に位置し、そこには特別なうみは存在しない。そしてそういう場合、その近い存在については調べつくされていることが多い。事実、あの家にあった図鑑はあの家の近くについてはやけに詳しく書かれていた。それこそ書かれている本の数、種類が違った。
 仮にうみについての定義が完璧にされていて、次男蟻の出る幕ではなかった場合、この旅の目的は一気に崩れ去り、ここにいる意味が大きく損なわれる。しかし、外の世界はあの家のことを知らない。そういう互いの欠如した知識、背景から導かれる定義は確実に異なる。その差異ができるだけ明確で、偉大なものであることを願いながら、次男蟻は生物を探した。


 ガサガサと大きな音がした。まだ月が沈んでいない景色は暗く、その音は曇りきった夜空にぽっかりと光る月のように、辺り一面のなかで唯一の大きな存在感を示した。次男蟻は警戒心を最大にし、その音のした方を見続けた。大きくなる音からこちらに近づいてくることがわかる。その音の変化は物語の序章のように興奮を掻き立ててきた。
 かなり大きな音と共に、暗闇から何かが飛び出し、次男蟻めがけて飛んできた。その姿が月明りに照らされ、スローモーションのように影が残像を次男蟻の目に焼き付いた。その何かは次男蟻の体を押さえつけ、的確に頭を狙って影を向けてきた。咄嗟に頭を振り、その影をよけると、動きが止まり、影の黒さに目が慣れていき、それが大きな生物であることが分かった。
 その大きな生物は蟻の体の三倍はあるだろうか、乏しい月明りのため、詳しい色や形はわからないが、丸い形をしていた。押さえつけられた手足がその生物の重みでつぶされる。黒い体が少し軋む。
 その生物の目は真っ黒だった。そこには生気を感じられず、目の前の生物だけしか見えていない狩りの目をしていた。次男蟻はそういう目をした生物に出会ったこともなかったが、本能か、それとも生物がだす凄まじい力の強さからか、そういうものから理解した。
「離して…ください」
押さえつけられた体から振り絞った声は今までで一番醜い声となって次男蟻に伝わってきた。生物は何も言わず、ただ押さえる力を増した。
 すると突然生物が力を弱め、視線を横に映した。月明りによって真っ黒い目に白い影ができていた。その際に生物の背中だろうか、そこにはとても綺麗な色が見えた。
 そのまま生物は次男蟻への興味を失ったかのように視線の方向に歩いて行った。大きな体からは振動を一切感じず、狩りのために進化したその行動を感じた。
生物が向かっていった方向、その生物のもう少し向こうに、何か、小さな光が無数に見えた。その光の小ささは、夜空の星のようで、周りの暗い景色と相まって次男蟻にはますます星に見えて仕方なかった。
作品名:慈雨と甘雨 4 作家名:晴(ハル)