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慈雨と甘雨 1

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 その日は長男蟻がその当番だった。籠を倉庫から取り出し、いつもと変わらない表情で赤い花がある方向へ向かう。装備品は特にない。大きな体一つに何も持たない蟻の姿は勇敢で、賞賛に値する。次男蟻もその姿をそう思った。そして今日もその後ろを追って家の敷地の扉をこっそりと抜け出た。
 
 当然のことだが、子供蟻である次男蟻が一人で家の外に無断で出ることはいけないことであった。その行為に他の蟻が気付かないわけもなく、二、三の大人蟻に見つかったが、咎められることはなかった。次男蟻のストーカー紛いの行動を知っている蟻たちにとってその行動は驚くものでなく、むしろ日々繰り返されたそのストーキング行動が異様な行動を隠した。さらに、次男蟻の類まれな頭脳と知識量を知っている大人蟻たちにとって、彼の行動は不思議でもあるが、同時に何かの意図があると察するのが、この家の通例でもあった。

 
 長男蟻は今日も真面目に働いていた。枯れ葉の在り処までよそ見することなく進み、傍で佇む草にも、綺麗な蝶にも惑わされることなく歩いていく。しかし、そこに決意のようなものは感じられず、ただ道を進むその姿は仕事にただ熱意を燃やしているようにも見えなかった。他の何かを考え、干渉してくるものに左右されないだけのように見えた。
 次男蟻は長男蟻のかなり後ろを、姿が確認できるギリギリの距離を歩いていた。まだ日が完全に登っていない朝方であったのも幸いして、長男蟻に姿を悟られることはなかった。少し霧が蔓延る枯れ葉の大地を歩いていく。自身より大きい枯れ葉を一枚過ぎると、また少し違う枯れ葉を過ぎる。微妙に違う感触が六本の足から伝わると、たまに訪れる不安定な枯れ葉を見つけ、恐怖に襲われた。この不安定な下には地面などないのかもしれない。散歩のときには感じない恐怖であった。
霧のみずみずしさが枯れ葉に落ちているのか、枯れ葉は湿っていた。その湿り気が足を濡らし、たまにある乾いた枯れ葉に足跡をつけた。それもすぐに乾くか、もしくは周りの湿気にやられて湿り気の中に同化した。歩くたびにつけてきた目印は役に立たない。まっすぐ進んでいるため、迷うことはないだろうが、それにも恐怖を感じた。
 当然のことだが、次男蟻の軽い体重では枯れ葉を押しつぶすことはなかった。その為、枯れ葉の擦れ合う音で長男蟻に気づかれることもなかった。静かな歩行で長男蟻との距離を縮めることなく進んでいく。後ろの家はもう見えなかった。霧に隠れたのか、距離が遠くなったのか。
 
 長男蟻が足を止めると、そこはあの赤い花の付近だった。そして近くにあった一つの枯れ葉を拾うと空に掲げて一つ頷き、それを籠に入れた。なんでも霜がついていない乾燥した枯れ葉がいいらしい。もう一つ拾うと、今度は首をふり、ばさっと投げ捨てた。吟味するその様子は家の中で唯一の鑑定士の大人蟻を思い浮かべた。年に数匹だけが任命される跡継ぎだけがその鑑定を許されたため、凡人の蟻たちにはそういう仕草も暗黙のルールとして許されていなかった。そのルール違反を堂々と行う長男蟻の姿に異様と高揚を覚えたのを次男蟻は今後一切口外しなかった。
 長男蟻の勤勉な仕事の様子はかなり異様だった。これまでも何度もそういう様子を見てきたのだが、毎回異様に思う。あれほど気まぐれだった長男蟻が、なぜここまで真剣に仕事をしているのか。
 籠いっぱいに枯れ葉を詰めると、少し休憩か、茎が太い花にもたれかかった。赤ではない。
いっぱいの籠は横に置かれていた。朝日が夜のどこかからかやって来て木々の葉と葉の境界に白い色を出した。いよいよ朝で、蟻たちも行動を開始する。長男蟻もそろそろ帰るのだろう。その前の小休憩。

しかし、長男蟻は動かなかった。風に揺られる草と共に眠ったかのように揺れていた。自然体な揺れはその周りの風景に溶け込むように黒い体の色を薄くさせた。残像のように体の色が抜けていく。彼は死んでしまったのか。
 その揺れはそれからも変わらなかった。いつまでも続くようなその揺れを次男蟻は離れた枯れ葉に隠れ見ていた。いつ動いてもいいように、その目を離さないでいた。

 長男蟻の次の自発的な行動は異様なものであった。
 それまでの勤勉な姿勢が焼き付いた次男蟻の目に入ってきたのは、詰め込んだ枯れ葉の籠を置き去りにして、家とは違う方角へ向かう長男蟻の姿だった。それは明らかに勤勉なものではなく、少し前の気まぐれな、長男蟻の本性であった。そばに蝶でも見つけたのか、はたまた、見たことのないものが転がっているのか。
 その行動に映る心情だとかそういうものは天敵に遭遇し、生命の危機から生じる緊張感に溢れるものではなかった。ただの気まぐれのように見えた。

 目の前の風景は、体サイズの雨粒が目線に叩きつけられ地面に打ち付けられ破裂した水越しに風景を見たときのようなもので、遠く、あまり詳しくは見えないが、長男蟻の近くには特に不思議なもの、未知の物は存在しなかった。まだ落ちている枯れ葉をいくつか乗り越えている。次男蟻もその進行に従い、先に進むのだが、ぼんやりと見えてきたのは、あの赤い花で、長男蟻の足取りはその赤い花にまっすぐ向かっているようであった。赤い花に近づいてはいけないという掟は長男蟻も承知のはずで、その行動の真意がわからなかった。危険に自ら進むその姿を勇敢だと形容することもできようが、堅実な次男蟻にはただの自殺行為にしか見えなかった。
 
 長男蟻はこれまでもそういう自殺ともとれる行為をしてきた。しかし、そのすべては何らかの興味から夢中になり、例えば高い木から落ちたり、例えば深い池に落ちたりと、そこに彼の意思は干渉していなかった。行為の果ての結果に自殺、事故ともとれるものがついてきて、その行為を他の蟻たちが自殺行為だと形容して口承していただけだった。
 だが、今の長男蟻の行為には彼の意思があるようであった。理由はないが、どうもそう感じて仕方ない。朝の陽ざしが差し込むたびに、その光が彼の体を照らすのだが、そこには彼の意思が主張するように体を黒く輝かせる。おれは進む。そういう強い意志が伝わるのだ。
 次男蟻にはもちろんわからない。行動には理由があり、その理由を探せばその行動の真意もおのずとわかるはずなのだ。本に載っている知識や情報が自分の行動の理由の一部になっていると本気で信じていた。
「あいつはどこにいくんだろう」
引き留めるべきか、だがこの尾行を長男蟻に気づかれるのはどこか負けたような気がしてそれはしなかった。二人はどんどん赤い花に近づいていく。

 







作品名:慈雨と甘雨 1 作家名:晴(ハル)