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臆病なシンデレラ~アラサー女子。私の彼氏は17歳~

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  愁いの日々

「津森さん。この資料のコピー、今日中にお願いね」
 上司の三村祥子(よしこ)に言われ、早苗は急いでデスクから顔を上げ頷いた。
「はい」
 祥子がスと音もなく近づいてくる。
「この間のように、人数分、足りなかったなんてことのないようにね」
「―申し訳ありませんでした」
 祥子に頭を下げる。顔を上げたそのときには、既に上司の姿は消えていた。
―三村の局は足音を立てずに歩く。
 というのは、リンデンバーグ社の有名な話である。
 津森早苗、三十一歳、俗に言うアラサー女子、恋人いない歴は三十年、見事なまでに男性に縁がなかった。彼氏いない歴を絶賛更新中だった去年、初めての彼氏と出逢い現在、交際中だ。リンデンバーグは化粧品製造メーカーであり、似たような会社が林立するこの業界の中では中堅といったところか。
 早苗は短大二年の時、たまたま大学近くのデパートのリンデンバーグ化粧品売り場コーナーでバイトをしていた。そこの店長が何と本社社長とは昵懇であったという関係から、早苗の実直な人柄と働きぶりを認められ、そのまま正社員として採用が決まった。
 多くの新卒が厳しい就職戦線で悩めるこのご時世に、信じられない幸運を得て、あっさりと就職を決めたのだ。
 早苗としては慣れたバイト先で働くことを希望していたのだが、それは叶わなかった。実際に店長を交えて社長と面談した結果、社長も早苗の人柄を高く評価し、是非にと本社社員として来て欲しいと懇願されたのだ。
 そうして、早苗は二十歳で短大を卒業後、リンデンバーグ化粧品に入った。大学で専攻したのは英文科で、今の仕事とは畑違いではあったけれど、営業部に配属されて充実した日々を送っていたのだ。
 たまに最上階にある社長室にいるはずの社長が営業まで様子を見にきたものだから、中には
―津森さんって、社長の愛人とか?
 などという実に失礼な噂まで立ったのも確かだ。
 もちろん、早苗と社長の間にそんなことがあるはずもない。実のところ、社長には長年連れ添った糟糠の夫人がいたものの、実子に恵まれなかった。リンデンバーグ社を興した祖父、父から順当に受け継いだ会社を自分の代で飛躍的に成長させた業界では伝説の辣腕ビジネスマンも、私生活では意に任せないことはあった。
 早苗がバイトしていた店の店長は、社長の古くからの友人の息子だった。社長は彼を息子のように可愛がっていて、その縁で早苗もリンデンバーグ社に採用されたというわけだ。
 普通、やり手のビジネスマンといえば食えないというか、冷酷な面もありそうなものだが、この社長は違った。リンデンバーグ社の企業理念は?誠実一途?だ。社長室の重厚なデスクの背後にも社長自らが書いたというその言葉が額に収まっているし、全社員が一日の始めと終わりには必ず通る本社屋の玄関にも同じものが掲げられている。
 その理念を体現するかのような生き方の社長を早苗は心から尊敬していた。
 早苗に父はいない。もちろん、五歳まではいたのだが、その頃、父と母は離婚した。
 成長するにつれて殆ど朧になってしまった父の顔と同様に、父の記憶はあまりない。けれど、ただ一つだけ、妙に鮮やかな記憶として残っているのは、父が最後に家を出ていくときの光景だった。
 家といってもアパートを少しマシにしたようなコーポラスで、父は手荷物を一つ下げて出ていこうとしていた。そんな父を早苗は追いかけていった。
―パパ、どうしちゃったの?
 父は一度だけ振り向いた。その顔はとても哀しそうだった。
―ごめんな。
 父はそれだけ振り絞るように言うと、後は振り向かずに出ていった。それが、父の顔を見た最後になった。
 父と離婚した母は専業主婦ではいられなくなり、近くのスーパーにパートとして勤めに出るようになった。それまで通っていた幼稚園から保育園に変わり、母が仕事を終えて保育園に迎えにくる時間は格段に遅くなった。
 保育園に通うようになってふた月経った頃のことだ。その日は、秋もそろそろ終わろうとする季節だった。秋の陽は短い。次々に迎えにきた母親に手を引かれて帰ってゆく園児たちを見送りつつ、早苗はぼんやりと膝を抱えて窓ガラスを見つめていた。
 残っているのは三人ほどになっていて、担当の保育士は紙芝居を読み聞かせてくれていた。確か、?シンデレラ?だったと思う。
 ?シンデレラ?は誰もが当たり前に知っているストーリーだ。継母と意地悪な義姉たちに虐められ、掃除や洗濯ばかりさせられていたシンデレラは魔法使いの力を借りて、素敵なプリンセスへと変身を遂げる。シンデレラはお城の舞踏会で王子に見初められた。
 しかし、十二時の鐘が鳴り終える前に魔法が解けるので、急いでお城の大階段を下りている途中で誤ってガラスの靴を片方だけ脱いでいってしまう。
 後日、シンデレラを忘れられない王子が国中の若い娘たちに一人一人、ガラスの靴を履かせることにした。その靴にぴったりと合う娘こそが舞踏会で出逢った姫だというのだ。やがて、シンデレラの家にも王子の遣いが来て、シンデレラがはくとガラスの靴はぴったりと誂えたように合った。シンデレラはお城に迎えられ、王子の妃として幸せに暮らす。
 早苗は頬杖をついて、すっかり暗くなった外を見ていた。
―シンデレラなんて嫌い。
 幼心にも思った。童話では不幸な少女は必ず本物のお姫さまになって幸せになるけれど、現実はそうそう甘くない。
 早苗はお姫さまどころか、実の父親にも棄てられた。
 そう、母は父が出ていって以来、何度も早苗に言い聞かせた。
―あんたの父親はあたしとあんたを棄てたんだよ。よそに良い女ができて、子どもまで作っちまったから、新しい家族の方が大切なんだってさ。
 早苗は幸か不幸か、派手な顔立ちの母親似ではなく、地味な父親似だった。母は早苗の顔を見ていると、自分たちを棄てていった父親を思い出すと嫌った。
―あんたを見ていると、あの男を思い出すわ。思い出したくないことも思い出しちまう。
 唾棄するような台詞を浴びせられたのは数え切れないほどだ。
 紙芝居が終わる頃、やっと母が迎えにきた。遊戯室の壁時計はもうとうに七時を回っていた。冬場は延長保育も七時までと決まっている。母も急いでいたのか、息を切らしていた。母の吐く息がそろそろ冷たさを増した戸外の空気に白く溶けていた。
 後にはまだ迎えが来ない三歳の男の子が一人、残っていたけれど、他の子どもたちは全員、帰っていた。
 迎えにきた母にまだ若い保育士が困ったよように、
―早苗ちゃん、どうしても紙芝居を見てくれなくて。何度も誘ったんですけど、ずっと、あの場所で外ばかり見ているんです。
 と告げると、母は近寄ってきた。
―先生の言うことをきかないと駄目でしょ。
 その時、早苗は母に言った。
―この頃、パパの顔を忘れそうになっちゃうの。今朝なんか、思い出そうとしても思い出せなくて。
 父と別れて二ヶ月が過ぎようとしていた。早苗は続けて言った。
―じっと外を見ていたら、少しは思い出せるような気がするから。
 その言葉に、保育士ははハッとしたような表情をし、母は綺麗に整えた細い眉をきつく寄せた。
―あんな薄情な男なんて、早く忘れてしまいなさい。