水のようなあなた
「ずっと、あんたを見てきたから。口下手で、無愛想で、冗談の一つ、お世辞の一つ言えないで場の空気をことごとく壊す。腹を立てるのも馬鹿らしくなるくらいくそ真面目。あのね、私が前の旦那と離婚して荒れてる時、ディズニーのぬいぐるみ送りつけてきたのあんたくらいだからね。あのぬいぐるみで馬鹿みたいに喜んでたの高校の頃の話だし、あんたが買ってきたのネコはネコでもシーの方でネコ違いだし、なんていうかもうほんとそういう、不器用で優しさの示し方斜め上行っているあんたを見てきたから、いいなって思ったの」
うっすらと膜が張った瞳の均衡が崩れないように、長い睫毛が盛んに瞬きを繰り返している。一つ一つの言葉がどれも熱い。それに触発されたように、先程拳を繰り出された右頬と高校三年の時に殴られた左頬に、じんわりと血が巡っていくようだった。
「私とあんたは何処まで行ったって他人よ。血なんて一滴だって同じくしていない。でも、だからなんだって言うの。赤の他人同士が出会って家族になるのは普通なのに、赤の他人同士の私とあんたが姉弟になっちゃいけない道理が何処にあるわけ。赤の他人で、それでも、あんたはやっぱり私の弟なの。死んだ弟は死んだ弟で、あんたはあんたなんだから。あの日からずっと、手のかかって腹の立つ、私の大事な弟なんだから」
涙を湛えた瞳を細め、亜希子が顔に指を伸ばしてくる。照れくさいが、招かれるがままに顔を下げる。殴られた頬に触れるかと思った指先は、しかしそこは素通りして、更に下へと伸ばされた。え?と間抜けな声を上げた時にはもう、貴臣の胸倉を掴んだ亜希子は、それは綺麗に微笑んだ。
「分かったら、こんな心臓に悪い真似二度としないで」
「き、肝に銘じます」
「またこんなことになったら、あんたのその役に立たない肝売り飛ばしてやるから」
恐ろしいことを囁いて貴臣を解放すると、流れるような動きで濡れた目じりを拭った。あまりにもその動作が自然だったから、もしかするとこの強くて膝を屈することをしない義姉でも、今まで幾度も涙を堪えてきたことがあったのかもしれないと思い至った。
「ソフトクリーム売ってるみたいよ。あんた好きだったでしょ」
それこそいつの話をしているのか。自分のぬいぐるみの話と合わせて、貴臣は噴き出してしまった。そして、小学生の中学年の頃に新しい家族で出かけた先の出来事を、亜希子がなんてことない顔で覚えていてくれたことが、無性に嬉しかった。
「亜希子さん」
「なに、買ってきてほしいの?」
「俺はあなたの支えになれますかね」
意地悪く見上げてきた亜希子に、静かに尋ねる。
義母の声が耳に入ってこないところをみると、養子の話はまだここだけになっているのだろう。立場的に微妙だから貴臣の耳に入れないでいよう、という気遣いが出来るタイプではないのは、これまで育ててもらった日々で実感済みだ。これからきっと相当な騒ぎになるのは明白だった。
今まで、厳しい言葉と態度で必死に自分を守ってくれていたこの人の背を支えてあげたかった。自分の背に触れた、樹の指のように。支えて、進むべき時に押してあげられるような人になりたかった。
貴臣の言葉に目を丸くした亜希子は、次には大きな口を開けて笑い出した。それは意地の悪さも、外向けのための整えられた美しさもない、ただ何処までも柔いだけの笑みだった。
「ばっかねぇ、そんなのとっくに支えられてるわよ」
笑いながら、貴臣の肩を叩く。眩しくて、上手く目を開けていられずに俯いた。
膝の布地に、丸い円がぽつりぽつりと落ちる。昨日から、何年間も固まっていた心の中の堰が決壊を起こして、上手くコントロールができないでいた。
鞄に大事にしまった封筒の中身が目蓋の裏にくっきりと思い浮かぶ。
遥の手元には、一枚残してきている。あれは、何処かのお人好しが、会ったばかりの辛気臭い年上の男のため入れていてくれた写真だ。
嗚咽が止まらずに丸めた背に、亜希子の掌が触れる。樹の指ととても似ていた。彼に触れられていた時よりも、更にリアルに指の感触が思い出される。
息をしているだけで、生きているつもりになっていた。生まれてきたから、ただ生きているだけの人間だった。昨日までは、ずっとそうやってきた。ようやく、瞳が開いて、美しいものを見て、震える心臓を手に入れた気分だった。
お兄さんったら、泣きすぎ。柔和な笑みを浮かべて、困ったように笑う樹に会いたかった。会って、最後に切れ端だけを伝えただけの言葉を全部、胸のうちをさらけ出すようにすべて、言ってやりたかった。
俺もだ。俺も、君に会えて、あそこで俺に出会ってくれたのが、君で、本当に良かったと心の底から思うよ、と。
〈終〉