狐公
その晩のことだった。鈴虫の音が月影と幻妙に調和した空間に、颯爽と一匹の狐が現れた。いや、一柱の神様が現れた。見間違えるわけがない、狐公だった。例によって気高く、美しかった。月影に照らされて仄白く、幾分青みがかってもいた。
妻子は寝ている。作兵衛は今晩、必ず狐公が来ると直感していた。
「やはり来てくださいましたね、狐公様。」
すると狐公は落ち着いた美しい声色で語った。
「あなたには感謝してもしきれない。今日あなたのもとから帰っていった子狐は、私の子だ。たしかに私は神様だが、あなたの村を救ったときにその霊力を使い果たしてしまった。だから災厄に巻き込まれた自らの子をも助けることがかなわなかった。あの子はまだ小さすぎて、神様としての霊力がない。普通の子狐なのだ。私も神様である前に狐の親。あなたたち人間と何も変わりはしない。私は初め、神様としての立場に戸惑っていたのだ。私は人間とともにありたいと強く願っていた。私は何も、あの水神のように超然としていようとは思わない。ただただ、あなたたちとともにありたかったのだ。だからこの村に降りてきた。出来る限りの恩恵を人々にもたらすために。作兵衛、あなたは私を信じてくれた。だから私も応えることができた。それが何より……嬉しかった。作兵衛……済まぬが私にはもう時間がない。私が今日ここに降りてきたのは、あなたに……あなたにわがままを言いにきたのだ。神様のわがままを……聞いてくれるかい?」
作兵衛は涙ぐんで、はい、と答えた。
「私はあと少しで神様としての役目を終える……。そこで、社を建ててほしいのだ。我々白狐の社を……。これから幾年も先、あなたたち人間と我々神様が睦まじく共存できるように……。」
作兵衛ははらはらと涙を流して、ええ、必ず、と何度も何度も繰り返した。狐公は最期の力を振り絞って、頷いた。
「……あなたに出会えてよかった、作兵衛。この村を救った甲斐があった……。後のことは、我が子がしっかりと見届けてくれよう……。ありがとう……作兵衛……。」
狐公はその場に静かに横たわった。月の光を浴びてきれいだった。まるで生きているかのようだった。作兵衛は表へ飛び出し狐公を抱き締めた。涙が白露のように狐公の上に落ちた。一つ、また一つ……。
「ああ……ああ……狐公様。そうでしたか。あなた様は土地神様でありながら、白露の神様でもありましたか……。道理で……道理で涙が止まらないわけです……。神様としてのおつとめ、ご苦労様でした……。安らかにお眠りください、狐公様。」
そう言い終えると、たちまち狐公は白鳥に容姿を変え、村の裏山に飛び去った。そこに豊かな稲が生じた。
後にそこに社を建て、その社の名を稲有(いなり)とした。神様の願いが叶った瞬間だった。
昔々、そのまた昔、神代の時代のことである。その小さな村は代々、狐公とともにあったそうな……。
〈完〉