狐公
昔々、そのまた昔、神代の時代のことである。小さな村に、ある一匹の狐がいたそうな。村の人々は神の化身としてこの一匹の小動物を、狐公と呼び崇めていた。なんでも災厄を取り除け、豊穣をもたらす土地神なのだとか。たしかに狐公は他の狐とは容姿が異なっておった。身をおおう毛が豊かでかつ白い。狛犬のような出で立ちで凛々しかった。そう、美しかったのじゃ。一体どうして狐公を神の化身として崇めない者があったであろう。
そんな狐公と村人作兵衛との淡く切ない物語じゃ……。
山に囲まれたある小さな村に作兵衛という村人がいた。作兵衛は村一番の働き者で30の歳をすぎても妻をもたず、毎日のように畑仕事をしていた。
「作兵衛や、ぬしはよう働くのう。」
「ああ善さんじゃあないか。いや、畑仕事はかかせないねえ。」
「わしの子どもらにもちょっと畑仕事の作法とやらを教えてくれんかのう。一日中遊び呆けておって困っておる。」
「ハハハ。なに、子どもは元気に遊ぶに限るさね。」
「ところでお前さん、妻をめとる気はないのかえ。」
「そうさねえ、ないわけじゃあないんだがなあ。」
「なんでも村長の話じゃあ、隣村に別嬪の娘がおるそうだ。ぬしみたいな働き者にはいよいよ合いそうじゃあないか、え。」
作兵衛もそう悪い気はしなかった。独り者の寂しさはもう十分理解している。この機を逃すのも格別惜しい気がしてならなかった。
「おらもいよいよ独り身じゃあなくなるのかいな。」
「なに、心配せんでも万事わしらでうまくやるから気にせんでええわい。」
善さんはそう言って、村の裏手の滝に水神様を祀りに出掛けていった。
その晩、月が大きく顔をだし、木々の間からその豊かな明かりを降り注いでいた。村の人たちは皆寝静まったのか、しんとした空気のなかに、近くの清流のせせらぎだけがもの悲しい調べを為していた。
作兵衛は今日の善さんとの会話を思い返していた。
「独り寝の寂しさもそろそろおしまいか。」
物思いに耽っているうちにうつらうつらとしてくる。いよいよ眠りにつこうとしたとき、ガサガサと音がした。ちょっと驚いたが、きっと何かの動物だろう、そう思った。しかし次の瞬間、白い何かが森から飛び出し、作兵衛の畑のあたりでくるりと向きを変えると、そこで静かに座った。その姿、何物にも例えるものがなく、比類なき美しさである。白く豊かなその毛並みは、月影によって仄白く照らし出されていた。その輪郭はたしかに狐に近いものであった。だが、こんなにも色白の格調高い狐はいたものか。夢かうつつか、作兵衛にはわからなかったが、間違いなく神様だと思った。
「白鳥様も空から飛んでやってきてくださった暁には、豊穣をもたらしてくださるのだ。白き生き物は神様が容姿を変えなさったものだ。この狐公もきっとそうであるに違いない。」
作兵衛はすぐさま狐公に向かって手を合わせて言った。
「狐公様。わたくし作兵衛は近々妻をめとることになりそうでございます。どうかあなた様の御霊力で、万事上手く進むようお取り計らいくださいませ。」
すると狐公はその見目良い顔を上げ、高い遠吠えをあげた。その声がせせらぎのもの悲しさと見事なまでに調和し、遠くの山々に木霊しながらこの世ならぬ空間を現出させた。緩やかな風が吹き込んだと思うと、そこにはもう狐公の姿はなかった。いつの間にか作兵衛は眠りについていた。
翌朝、早速作兵衛は村人たちに昨晩起きた出来事を話した。小さな村であるから全員を集めるのは容易く、村人たち一同も目を丸くして聞いていた。
「そりゃあ間違いなく神様だっぺえよ、作ちゃん。あんたえらいもん見たんねえ。」
「そうでよ、作兵衛。これは瑞兆やもしらん。」
皆口々に意見をのべるが、誰もあの狐公の存在を否定しなかった。何せ作兵衛は信頼のおける男だから。
「作兵衛、このことは他には言わない方がええでよ。神様の御力は黙っている者にこそ具わるっちゅうものさね。」
村長のこの言葉には皆納得したようにうんうんと頷いた。
「みんな、ありがとう。たしかに、言霊っちゅうものがあるから、気つけます。」
そうして作兵衛はいつものように畑仕事に黙々と取り組んだ。……そして、それから数日して無事に隣村の娘と結ばれることとなった。
娘は名をお稲といった。それはそれは別嬪で、気立てもよく、作兵衛のいる村に移ってすぐに、村人たちとも打ち解けた。
婚礼の晩、村を上げてお祭り騒ぎ。作兵衛の村でもお稲の村でも。お稲は恥ずかしそうに、でも嬉しそうにそのお祭り騒ぎに興じていた。
山の神様たちも祭りを大いに楽しんだとみえて、すっかり辺りも静まった夜、作兵衛はお稲に次のようなことを尋ねた。
「お稲や、生まれは隣村かい?」
やや少し間があって、
「実は私、拾われ子にございます。」
そう言うとお稲は心持ち顔を俯けた。
作兵衛は聞いてはいけないことを聞いてしまったかと慌てたが、お稲は続けて言った。
「でもいいのです。あなたとこうして一緒になれましたもの。」
ああ、なんて良くできた妻を持ったのだろう。作兵衛はこの時ほど幸せを感じたことはなかった。
そうして数年がたち、作兵衛とお稲の間には三人の子ができた。それによって村も豊かになり、なに不自由なく暮らしていた……。
……しかし、自然の神様は実に気まぐれで、ある日、水神の怒りが頂点に達した……。
「祟りじゃ!」
「逃げよ逃げよ!」
「えーんえーん。」
様々な声が入り乱れる。あの清流のせせらぎが表情を一変させたのだ。ごおーっというけたたましい音とともに村に押し寄せる洪水は悪夢だった。瞬く間に山々は地滑りをおこし、その土砂に村は埋もれる。
作兵衛は妻子を連れて高台に逃げる途中、ふと狐公をみた気がした。いや、間違いない。あれは狐公だ。数年前、あの月影の中でみた狐公だ!
「狐公様……!」
思わず声を張り上げる。村人たちも皆作兵衛の声の方向に目を向ける。狐公は間違いなく、あの怒りうずまく村の方へ駈けていった。水神の怒りを鎮めるためだろうか。
「狐公様、どうかまたわたくしどもをお救いください。」
作兵衛だけでなく、村人たちも同じことを思ったのだろう。手を合わせ始めた。
……どのくらいの時がたったろう。水神の怒りが鎮まり、村に戻れるようになったのは。そこで村人たちは目を疑った。
そこには洪水や土砂に埋もれたはずの村が、以前豊かだった時と同じ状態で残っていたではないか!
「ああ……!狐公様だ。」
村人たちは皆、狐公に感謝した。
しかし、作兵衛は自分の畑に戻ったとき、絶句してしまった。豊かに実った作物の陰に、狐が一匹倒れていたのだ。……どうやら狐公ではないらしい。まだ小さい。ただ、どことなく狐公を思わせる気高さがあった。かなりの深傷を負っていて、瀕死の危機にあった。
「早く手当てをしてやらんと!」
作兵衛はお稲を呼んで、狐を手当てしてやった。ここ3日狐は動かなかった。もうだめかと思ったとき、ピクリと小さな体を動かした。
「お稲や、お稲や!」
数日して狐は復活し、野に帰っていった。その時狐はくるりと向きを変えて、畑の近くに座ってじっと作兵衛とお稲を見つめてから帰っていった。その挙動はまるで狐公そのものだった。
そんな狐公と村人作兵衛との淡く切ない物語じゃ……。
山に囲まれたある小さな村に作兵衛という村人がいた。作兵衛は村一番の働き者で30の歳をすぎても妻をもたず、毎日のように畑仕事をしていた。
「作兵衛や、ぬしはよう働くのう。」
「ああ善さんじゃあないか。いや、畑仕事はかかせないねえ。」
「わしの子どもらにもちょっと畑仕事の作法とやらを教えてくれんかのう。一日中遊び呆けておって困っておる。」
「ハハハ。なに、子どもは元気に遊ぶに限るさね。」
「ところでお前さん、妻をめとる気はないのかえ。」
「そうさねえ、ないわけじゃあないんだがなあ。」
「なんでも村長の話じゃあ、隣村に別嬪の娘がおるそうだ。ぬしみたいな働き者にはいよいよ合いそうじゃあないか、え。」
作兵衛もそう悪い気はしなかった。独り者の寂しさはもう十分理解している。この機を逃すのも格別惜しい気がしてならなかった。
「おらもいよいよ独り身じゃあなくなるのかいな。」
「なに、心配せんでも万事わしらでうまくやるから気にせんでええわい。」
善さんはそう言って、村の裏手の滝に水神様を祀りに出掛けていった。
その晩、月が大きく顔をだし、木々の間からその豊かな明かりを降り注いでいた。村の人たちは皆寝静まったのか、しんとした空気のなかに、近くの清流のせせらぎだけがもの悲しい調べを為していた。
作兵衛は今日の善さんとの会話を思い返していた。
「独り寝の寂しさもそろそろおしまいか。」
物思いに耽っているうちにうつらうつらとしてくる。いよいよ眠りにつこうとしたとき、ガサガサと音がした。ちょっと驚いたが、きっと何かの動物だろう、そう思った。しかし次の瞬間、白い何かが森から飛び出し、作兵衛の畑のあたりでくるりと向きを変えると、そこで静かに座った。その姿、何物にも例えるものがなく、比類なき美しさである。白く豊かなその毛並みは、月影によって仄白く照らし出されていた。その輪郭はたしかに狐に近いものであった。だが、こんなにも色白の格調高い狐はいたものか。夢かうつつか、作兵衛にはわからなかったが、間違いなく神様だと思った。
「白鳥様も空から飛んでやってきてくださった暁には、豊穣をもたらしてくださるのだ。白き生き物は神様が容姿を変えなさったものだ。この狐公もきっとそうであるに違いない。」
作兵衛はすぐさま狐公に向かって手を合わせて言った。
「狐公様。わたくし作兵衛は近々妻をめとることになりそうでございます。どうかあなた様の御霊力で、万事上手く進むようお取り計らいくださいませ。」
すると狐公はその見目良い顔を上げ、高い遠吠えをあげた。その声がせせらぎのもの悲しさと見事なまでに調和し、遠くの山々に木霊しながらこの世ならぬ空間を現出させた。緩やかな風が吹き込んだと思うと、そこにはもう狐公の姿はなかった。いつの間にか作兵衛は眠りについていた。
翌朝、早速作兵衛は村人たちに昨晩起きた出来事を話した。小さな村であるから全員を集めるのは容易く、村人たち一同も目を丸くして聞いていた。
「そりゃあ間違いなく神様だっぺえよ、作ちゃん。あんたえらいもん見たんねえ。」
「そうでよ、作兵衛。これは瑞兆やもしらん。」
皆口々に意見をのべるが、誰もあの狐公の存在を否定しなかった。何せ作兵衛は信頼のおける男だから。
「作兵衛、このことは他には言わない方がええでよ。神様の御力は黙っている者にこそ具わるっちゅうものさね。」
村長のこの言葉には皆納得したようにうんうんと頷いた。
「みんな、ありがとう。たしかに、言霊っちゅうものがあるから、気つけます。」
そうして作兵衛はいつものように畑仕事に黙々と取り組んだ。……そして、それから数日して無事に隣村の娘と結ばれることとなった。
娘は名をお稲といった。それはそれは別嬪で、気立てもよく、作兵衛のいる村に移ってすぐに、村人たちとも打ち解けた。
婚礼の晩、村を上げてお祭り騒ぎ。作兵衛の村でもお稲の村でも。お稲は恥ずかしそうに、でも嬉しそうにそのお祭り騒ぎに興じていた。
山の神様たちも祭りを大いに楽しんだとみえて、すっかり辺りも静まった夜、作兵衛はお稲に次のようなことを尋ねた。
「お稲や、生まれは隣村かい?」
やや少し間があって、
「実は私、拾われ子にございます。」
そう言うとお稲は心持ち顔を俯けた。
作兵衛は聞いてはいけないことを聞いてしまったかと慌てたが、お稲は続けて言った。
「でもいいのです。あなたとこうして一緒になれましたもの。」
ああ、なんて良くできた妻を持ったのだろう。作兵衛はこの時ほど幸せを感じたことはなかった。
そうして数年がたち、作兵衛とお稲の間には三人の子ができた。それによって村も豊かになり、なに不自由なく暮らしていた……。
……しかし、自然の神様は実に気まぐれで、ある日、水神の怒りが頂点に達した……。
「祟りじゃ!」
「逃げよ逃げよ!」
「えーんえーん。」
様々な声が入り乱れる。あの清流のせせらぎが表情を一変させたのだ。ごおーっというけたたましい音とともに村に押し寄せる洪水は悪夢だった。瞬く間に山々は地滑りをおこし、その土砂に村は埋もれる。
作兵衛は妻子を連れて高台に逃げる途中、ふと狐公をみた気がした。いや、間違いない。あれは狐公だ。数年前、あの月影の中でみた狐公だ!
「狐公様……!」
思わず声を張り上げる。村人たちも皆作兵衛の声の方向に目を向ける。狐公は間違いなく、あの怒りうずまく村の方へ駈けていった。水神の怒りを鎮めるためだろうか。
「狐公様、どうかまたわたくしどもをお救いください。」
作兵衛だけでなく、村人たちも同じことを思ったのだろう。手を合わせ始めた。
……どのくらいの時がたったろう。水神の怒りが鎮まり、村に戻れるようになったのは。そこで村人たちは目を疑った。
そこには洪水や土砂に埋もれたはずの村が、以前豊かだった時と同じ状態で残っていたではないか!
「ああ……!狐公様だ。」
村人たちは皆、狐公に感謝した。
しかし、作兵衛は自分の畑に戻ったとき、絶句してしまった。豊かに実った作物の陰に、狐が一匹倒れていたのだ。……どうやら狐公ではないらしい。まだ小さい。ただ、どことなく狐公を思わせる気高さがあった。かなりの深傷を負っていて、瀕死の危機にあった。
「早く手当てをしてやらんと!」
作兵衛はお稲を呼んで、狐を手当てしてやった。ここ3日狐は動かなかった。もうだめかと思ったとき、ピクリと小さな体を動かした。
「お稲や、お稲や!」
数日して狐は復活し、野に帰っていった。その時狐はくるりと向きを変えて、畑の近くに座ってじっと作兵衛とお稲を見つめてから帰っていった。その挙動はまるで狐公そのものだった。