ある不動産屋の男
1章 出会い
ある秋の夕方のことである。私は同級生の男2人と大学から帰る途中であった。大学病院に隣接する私道でタクシーから降りる男の姿があった。視線が合うと「お〜い」といいながら手を振ってくる。なんだろうと思い、私は会釈をして、男の方に近寄った。
初老の男の表情は疲れているようにみえた。皮脂が付着して曇った丸い眼鏡をかけており、髪は軽く分けている。よれた黒のスーツ姿でネクタイは締めておらず、肥えたお腹が目立つ。ボタンも留めていない。白いシャツには醤油か何かの褐色のシミがあった。
男は出し抜けにこう言った。
「俺よお、3億円持ってるんだよ〜」
どこか寂しげなトーンでそう話す男はYと名乗った。
「どうしたんですか」
「あのよお、ちょっと勉強教えてくれないかい。みんな大学生だろう。」
「あ、はい。そうですけど。」
珍しい人だ。私が最初に感じたYついての印象である。私たちはその場で電話番号を交換した。Yは後で電話するといいタクシーに乗り込んでいった。
その日の夕方、私は自分のアパートでベッドに腰掛けぼんやりしていた。突然、私の携帯が鳴った。電話にでると「どうも」と小さな声がする。
「Tさんさあ、医者になるの?」
「ええと、今のところそう考えていますけど。」
「医者になったら開業するのかい。」
「いやあ、開業は難しいと思っています。お金もかかりますし。」
「頭いいんだなあ。」
「今は開業してもあまり儲からないみたいですし。診療報酬はどんどん下がってると聞きますから。」
「医者なんてならない方がいいんじゃないの?」
Yは諭すように話した。
「あのね、この年になって俺、色々分かったんだよ。勉強するのが一番だよ。金儲けなんかするもんじゃない。」
60代の大金持ちが、金儲けするなと言ってくる。私は不思議に思った。Yは3億円ものお金を持っていると言っていたが、それはどうやって得た資金なのか。
「Yさん、お金持ちだと言っていましたけど、どんな仕事をしているんですか?」
「俺は社長だからよお。」
Yは自慢する風でもなく、ぶっきら棒にそう言い放ち、それ以上は話そうとはしてくれなかった。
「また電話する。」
と言って一方的に電話を切った。
もしかしたら私と気が合うと思ってくれたのかもしれない。私は机の上に携帯を置き、ふと、この人は裕福な家庭で育ったのではないかと思った。
次の日の夕方、家でパソコンをいじっているときに、また電話が鳴った。
「あ、Yさんですか、こんばんは。」
「Tさんさあ、俺も医者になろうかと思ってるんだよ。」
Yは電話越しにそう切り出した。
「Tさんさあ、勉強得意だろう。ちょっと教えてくれませんか。」
なぜか敬語であった。
「え、Yさん、医学部を受験するんですか?」
私は驚いて正直にそう聞いた。とてもこれから大学受験するような人には見えなかったからである。そもそも、何億円も貯蓄があるというのに大学受験をするというのはなぜか。私はしかし、それ以上考えることはせず、承諾の返事をした。
Yという人に興味があり、またお金に困っていたからでもあった。
当然ながらYは同級生にも電話をかけていた。私が同級生の家にお邪魔しているときにYの話になったのだ。
「可哀想に思った。」
と同級生の山根は言った。
「話をよく聞くと、とても不運な境遇だったということが分かったんだ。Yさんは昔、東京で生活しているときに、公害の影響で病気になったんだよ。喘息と言っていたかな。」
ははあ、と私は思った。だからYは60を過ぎる年になって医者になりたいと言っているのか。医者として働くわけではないにしても、Yは真面目で、純粋に学問が好きであるから、病気のことも勉強したいと思ったのではないか。
考えを遮るように山根は言った。
「けれど」
「自分の話しかしない人とは一緒にいれない。」
確かにYは話を聞くというよりかは、饒舌に話す人柄であった。話を無視することも多い。それが山根にとっては煙たかった。私のYに対する気持ちとは反対であった。
夜中、私は些か興奮していた。意味もなく大学へと車を走らせ、ほとんど周囲が見えない暗い駐車場に駐車した。一呼吸置いてからYに電話をかけた。
「Yさん、勉強の話なんですが、明日にでもどうですか。あ、それから一応言っておかなくちゃいけないんですが、報酬はもらいたいと思うんです。大丈夫でしょうか。」
Yは何を思ったのか暖かく笑って「いいよ」と応えてくれた。そういう声を聞くのはちょっと初めてであった。
2章 レストランにて
その日、私は9時に目が覚めた。
Yと待ち合わせの日であった。
私は簡単に身支度をして約束の喫茶店へと向かった。街の小さいテナントビルの一階にあるドイツ料理店であり、奥まったところに入り口があった。入り口の隣には、料理の模型とビールグラスを持った男の人形があり、人形は、虚ろに道路の方を見ていた。
扉を開け、ウェイトレスの案内に従い奥に進むと、店が意外と広いことが分かった。窓からは日光が差し込み明るかった。
Yはすでに到着していた。窓側の席に座り、黒のスーツ姿で、少し背中を丸め、本を手にしている。
テーブルの上にあるのは受験参考書であった。5冊以上の本が無造作に散らばっている。Yの座る隣の席には、白い大きな紙袋が置かれていた。角が一部破れている。
「Yさん、早いですね。」
私は声をかけた。
挨拶もそこそこにYは勉強を教えてくれと頼んだ。しばらく勉強の話をしていると、Yは厄介なものを手で払う仕草をするので説明を止めた。
Yは大学受験をすると言っていたが、どうやら本気ではなく、趣味程度のものであるようだと私は思った。
しばらくしてYの携帯の着信が鳴った。デフォルトの電子音であった。
「はい。」
「ご無沙汰しております。松竹建設の岡崎と申しますが。」
微かに聞こえる男の声は至極丁寧であった。
「あ〜じゃあ先生ね。法務局の方に行って書類を作っておいてよ。うん、それで今週の金曜日にでも一回会おうよ。うん、それじゃあまた。」
Yはそう言うと、充電コードが差し込まれたままの携帯電話を無造作にスーツの外ポケットにしまった。ポケットが丸く膨らんでいる。
「誰ですか?」
Yの仕事についての興味から出た言葉であった。
「取引先のやつだよ。今度、家を一軒売るんだよ。」
「え、Yさん、不動産屋さんだったんですか?」
「ああ、そうだよ。」
「××県にある物件を2500万円で買い取ってくれることになった。」
「本当ですか?」
私は驚いた。
Yの仕事は土地の転売であった。不動産を転売する際に土地を整地したりリフォームすることで不動産に付加価値を付け、より高い金額で売却する商売である。
Yの電話は、買主に不動産の測量と登記を促すものであるらしかった。
3章 売却邸宅
ある日、Yからの電話があった。
まだ売れていない物件があるので見に来ないかという。私はYを乗せて、その一戸建てがあるという他県の街まで、2時間ほど走った。ドライブの最中、Yがいつもと違う様子なのでこう尋ねた。
「Yさん、今日はやけに落ちついていますね。」
しばらく無言であったYが言った。
ある秋の夕方のことである。私は同級生の男2人と大学から帰る途中であった。大学病院に隣接する私道でタクシーから降りる男の姿があった。視線が合うと「お〜い」といいながら手を振ってくる。なんだろうと思い、私は会釈をして、男の方に近寄った。
初老の男の表情は疲れているようにみえた。皮脂が付着して曇った丸い眼鏡をかけており、髪は軽く分けている。よれた黒のスーツ姿でネクタイは締めておらず、肥えたお腹が目立つ。ボタンも留めていない。白いシャツには醤油か何かの褐色のシミがあった。
男は出し抜けにこう言った。
「俺よお、3億円持ってるんだよ〜」
どこか寂しげなトーンでそう話す男はYと名乗った。
「どうしたんですか」
「あのよお、ちょっと勉強教えてくれないかい。みんな大学生だろう。」
「あ、はい。そうですけど。」
珍しい人だ。私が最初に感じたYついての印象である。私たちはその場で電話番号を交換した。Yは後で電話するといいタクシーに乗り込んでいった。
その日の夕方、私は自分のアパートでベッドに腰掛けぼんやりしていた。突然、私の携帯が鳴った。電話にでると「どうも」と小さな声がする。
「Tさんさあ、医者になるの?」
「ええと、今のところそう考えていますけど。」
「医者になったら開業するのかい。」
「いやあ、開業は難しいと思っています。お金もかかりますし。」
「頭いいんだなあ。」
「今は開業してもあまり儲からないみたいですし。診療報酬はどんどん下がってると聞きますから。」
「医者なんてならない方がいいんじゃないの?」
Yは諭すように話した。
「あのね、この年になって俺、色々分かったんだよ。勉強するのが一番だよ。金儲けなんかするもんじゃない。」
60代の大金持ちが、金儲けするなと言ってくる。私は不思議に思った。Yは3億円ものお金を持っていると言っていたが、それはどうやって得た資金なのか。
「Yさん、お金持ちだと言っていましたけど、どんな仕事をしているんですか?」
「俺は社長だからよお。」
Yは自慢する風でもなく、ぶっきら棒にそう言い放ち、それ以上は話そうとはしてくれなかった。
「また電話する。」
と言って一方的に電話を切った。
もしかしたら私と気が合うと思ってくれたのかもしれない。私は机の上に携帯を置き、ふと、この人は裕福な家庭で育ったのではないかと思った。
次の日の夕方、家でパソコンをいじっているときに、また電話が鳴った。
「あ、Yさんですか、こんばんは。」
「Tさんさあ、俺も医者になろうかと思ってるんだよ。」
Yは電話越しにそう切り出した。
「Tさんさあ、勉強得意だろう。ちょっと教えてくれませんか。」
なぜか敬語であった。
「え、Yさん、医学部を受験するんですか?」
私は驚いて正直にそう聞いた。とてもこれから大学受験するような人には見えなかったからである。そもそも、何億円も貯蓄があるというのに大学受験をするというのはなぜか。私はしかし、それ以上考えることはせず、承諾の返事をした。
Yという人に興味があり、またお金に困っていたからでもあった。
当然ながらYは同級生にも電話をかけていた。私が同級生の家にお邪魔しているときにYの話になったのだ。
「可哀想に思った。」
と同級生の山根は言った。
「話をよく聞くと、とても不運な境遇だったということが分かったんだ。Yさんは昔、東京で生活しているときに、公害の影響で病気になったんだよ。喘息と言っていたかな。」
ははあ、と私は思った。だからYは60を過ぎる年になって医者になりたいと言っているのか。医者として働くわけではないにしても、Yは真面目で、純粋に学問が好きであるから、病気のことも勉強したいと思ったのではないか。
考えを遮るように山根は言った。
「けれど」
「自分の話しかしない人とは一緒にいれない。」
確かにYは話を聞くというよりかは、饒舌に話す人柄であった。話を無視することも多い。それが山根にとっては煙たかった。私のYに対する気持ちとは反対であった。
夜中、私は些か興奮していた。意味もなく大学へと車を走らせ、ほとんど周囲が見えない暗い駐車場に駐車した。一呼吸置いてからYに電話をかけた。
「Yさん、勉強の話なんですが、明日にでもどうですか。あ、それから一応言っておかなくちゃいけないんですが、報酬はもらいたいと思うんです。大丈夫でしょうか。」
Yは何を思ったのか暖かく笑って「いいよ」と応えてくれた。そういう声を聞くのはちょっと初めてであった。
2章 レストランにて
その日、私は9時に目が覚めた。
Yと待ち合わせの日であった。
私は簡単に身支度をして約束の喫茶店へと向かった。街の小さいテナントビルの一階にあるドイツ料理店であり、奥まったところに入り口があった。入り口の隣には、料理の模型とビールグラスを持った男の人形があり、人形は、虚ろに道路の方を見ていた。
扉を開け、ウェイトレスの案内に従い奥に進むと、店が意外と広いことが分かった。窓からは日光が差し込み明るかった。
Yはすでに到着していた。窓側の席に座り、黒のスーツ姿で、少し背中を丸め、本を手にしている。
テーブルの上にあるのは受験参考書であった。5冊以上の本が無造作に散らばっている。Yの座る隣の席には、白い大きな紙袋が置かれていた。角が一部破れている。
「Yさん、早いですね。」
私は声をかけた。
挨拶もそこそこにYは勉強を教えてくれと頼んだ。しばらく勉強の話をしていると、Yは厄介なものを手で払う仕草をするので説明を止めた。
Yは大学受験をすると言っていたが、どうやら本気ではなく、趣味程度のものであるようだと私は思った。
しばらくしてYの携帯の着信が鳴った。デフォルトの電子音であった。
「はい。」
「ご無沙汰しております。松竹建設の岡崎と申しますが。」
微かに聞こえる男の声は至極丁寧であった。
「あ〜じゃあ先生ね。法務局の方に行って書類を作っておいてよ。うん、それで今週の金曜日にでも一回会おうよ。うん、それじゃあまた。」
Yはそう言うと、充電コードが差し込まれたままの携帯電話を無造作にスーツの外ポケットにしまった。ポケットが丸く膨らんでいる。
「誰ですか?」
Yの仕事についての興味から出た言葉であった。
「取引先のやつだよ。今度、家を一軒売るんだよ。」
「え、Yさん、不動産屋さんだったんですか?」
「ああ、そうだよ。」
「××県にある物件を2500万円で買い取ってくれることになった。」
「本当ですか?」
私は驚いた。
Yの仕事は土地の転売であった。不動産を転売する際に土地を整地したりリフォームすることで不動産に付加価値を付け、より高い金額で売却する商売である。
Yの電話は、買主に不動産の測量と登記を促すものであるらしかった。
3章 売却邸宅
ある日、Yからの電話があった。
まだ売れていない物件があるので見に来ないかという。私はYを乗せて、その一戸建てがあるという他県の街まで、2時間ほど走った。ドライブの最中、Yがいつもと違う様子なのでこう尋ねた。
「Yさん、今日はやけに落ちついていますね。」
しばらく無言であったYが言った。