かけがえのないものがほしい
「僕が小説を書く。それを読むから認知予防にもなる」
そんなことを笑いながら二人で話す。そう思い出しながら、一人でビールを飲み、代官山の夜景を見ていると、あの外務省の人が僕のほうにやってきた。
「あなた、介護をやっている……」
そう彼は日本語で話してきた。
「すごいですね。外務省で働いてるんですね」
僕が言うと、
「いや、いや、そんな……」
そう謙虚な姿勢で言った。そして、
「介護の仕事大変じゃないですか?」
そう僕に訊いた。
「まあ、大変ですけど、それしか取り柄ないし」
そう笑いながら僕は言った。
「私は母を……一人を看るだけで大変だった。あなた達介護員はよくやっていると思うよ。本当に感謝している。ありがとう」
彼はそう言って、僕の手を取った。
「本当ありがとう。あなた達には申し訳ないよ。本当申し訳なく思っている」
彼はそう頭を上げずに、僕の手をしっかりもってそう言った。
「本当ありがとう。本当申し訳ない」
横で外国人がスナックを食べながら、ビールを飲んでいる。
周りの日本人や外国人がちらちら私達のほうを見ているし、何か違和感があった。外務省の彼は手が震えている。泣いているようだ。
「本当に申し訳ない。本当に申し訳ない。ありがとう」
外国人たちはビールを飲みながら明らかに不自然な光景にこちらを見ている。
彼は「ありがとう。申し訳ない」を繰り返しながら手を握り、そのとき、彼の顔から一粒の涙がこぼれた。
その日も僕は代官山のカフェから代官山の駅まで、一人とぼとぼ歩いて行った。嫁にはご飯はいらないと言ってある。代官山の空を見上げるとこんな都会でも星は奇麗だった。そしてそんな夜空を見上げながら、思う言葉は、
“彼は一体、本当は誰に対して申し訳なく思い、涙したのだろうか”
そんなことだった。
代官山から渋谷が見える。
他人と他人が行き交う渋谷の街が、離れて観るとこんなにも綺麗に見えるのが不思議だった。
作品名:かけがえのないものがほしい 作家名:松橋健一