かけがえのないものがほしい
なあ昔浅草には、夢があったんだってなあ。
どんな夢だったんだろうよ。
正和さんは僕達にとって最後の江戸っ子。
もう日本から、本物の江戸っ子がいなくなろうとしているんだ。
「お父さんヒロエフに行くってよ。行くの?行かないの?」
「なんでもいい」
「なんでもいいじゃないよ。お父さんも寝てないで、今日はスーパーのヒロエフに行く日だよ。行くの?行かないの?もう玄関にバスがついてるよ。みんな待ってるよ。行くの?行かないの?」
「どっちでもいい」
「行かないのね。じゃあ、栗むしようかん買ってくる?」
「なんでもいい」
「買ってくるのね。もうみんな行くからね」
今日は週に一回のこの民家のような介護施設から、老人と介護員で、マイクロバスに乗って、スーパーのヒロエフに買い物に行く日。
僕はここ川崎の介護施設で働いている。
正和さんがまだ元気だった頃、よく僕達に浅草の話をしてくれた。漫才や落語、手品、演芸、そんなものが浅草にはあった。
「浅草もさびれたねえ」
浅草育ちの正和さんはそう言う。
僕達にとってもう、この時代から消えようとしている最後の生粋の江戸っ子の正和さんと僕は思えた。正和さんに僕は訊いた。
「正和さん。江戸っ子になるにはどうすればいいんですか?江戸っ子ってどんなもんですかね?」
「江戸っ子ねえ。まあ、理屈っぽくないことだな。でも東京も川崎も同じよ」
そんな正和さんも最近では寝たきりで、ここ川崎の施設に来て三年経った今では、ほとんど日中から寝ている。
夫婦で入居しているが奥さんの菊さんは旦那の昔話をする。
「お父さんね。昔ね。千葉まで競馬に行ってね。電車賃も使っちゃってね。千葉から歩いて帰ってきたの。そんな人いる?」
「それで負けたのはお前が行ってらっしゃいって言わなかったからだって。私のせいにするの。そんな人いる?」
二人は昔よく喧嘩をしていたそうだが、なんだかんだ言って仲が良さそうだ。
二人は相部屋で、夜は二人で施設公認の焼酎の入った滋養強壮の健康ドリンクを飲みながら、僕の名前を出して、
「健一がさあ」
とわが子のことを話すように、僕の話をしていると、一緒に働いている僕の嫁が教えてくれた。僕と嫁はこの施設で出会った。嫁は夜勤のときよくあの夫婦が僕の話をしているところを見ているそうだ。
僕はレクリエーションで今時のジョークを言うとほとんどの人が笑わない。数少ない人が低く笑うだけだ。正和さんが元気だったとき、レクリエーションの司会で僕が、
「私が大きなプールに行ったんですよ。いろんなワイン風呂とか、緑茶風呂、日本酒風呂、その中に死海風呂ってのがありましてね。すごい濃度の高い塩水のお風呂なんです。ただ注意書きに擦り傷などけがのある人はご遠慮くださいってあったんです。どこもけがなんてないから大丈夫だよなあと思って入ったんです。入った途端ギャーと思いました。私切れ痔だったこと忘れていたのです。もう死海風呂から出てお尻を抑えながらひょこひょこ内股で歩き回って」僕は実際にみんなの前で内股でお尻を抑えながらひょこひょこ歩いた。普段早い話についていけない高齢のおばあちゃんも、ひょこひょこ歩く姿がおかしいのは感じ取れ、そのときは利用者みんなが笑った。
そんな冗談を正和さんはいつも以上にオーバーに笑って、レクリエーションが終わった後、僕に、
「みんなで笑える笑いじゃないとダメ。みんなで笑えなきゃダメよ」
そう言った。そういった形で僕は正和さんのリアクションを頼りに、お年寄りの趣味嗜好を学んでいった。
正和さんと菊さんには本当の子供がいるのだが、二人ともほとんど子供の話をしない。
あるときのレクリエーションでDVD体操をして僕がレクの担当してるとき、菊さんが、
「健一君も変わったねえ」
そう言った。
「偉くなると変わるもんだねえ」
「何が変わったっていうんですか?私は一生懸命やってますよ」
「軍隊式になった。昔はもっと冗談とかいっぱい言ってた」
二人が入居したての頃、この施設はまだ立ち上げたばかりで、ほとんど入居者がいなかった。だから結構お茶らけた冗談を言って、レクリエーションも脱線して、みんなで笑い合っていた。
あの頃は施設も赤字だったけど、職員三人に対し、入居者も三人というありえない人員配置だった。だからあのときだからこそできたことがある。
そのときは正和さんも寝たきりでなく、僕達のレクリエーションに、一本だけの歯を見せて、手を叩いて笑っていた。
今は七人の入居者プラス一日数人のデイサービス利用者がいる小規模多機能型施設だ。
十数人の利用者に一人でDVD体操をやったりする。自転車操業にならないようにするのが、ここ民家を借りた施設のメリットだが、やはり立ち上げ当初の頃のようにはいかない。
あるとき、思わぬ訪問者が訪れた。六十歳くらいの男性だ。
「亀田夫婦はいますか?」
亀田夫婦とは正和さんと菊さんのことだ。
この男性は亀田夫婦の子供だという。子供とはずっと連絡を取っておらず、縁も切れていたと聞いたが。
職員の一人も「正和さんも昔、遊びたい放題遊んだんだ。子供は苦労したと思うよ」
そう言う。
いつもチャキチャキの江戸っ子の正和さんとは想像もつかない、まるで公務員のような真面目な男性だった。医療機器を扱ったサラリーマンをしているのだという。きっと苦労もしたのだろう。
他にも入居している利用者がいるが、訪問してくれる子供なんてほとんどいない。
利用者の中で福島から来た人がいる。震災のとき、体育館で過ごしていたが、高齢のため体力的にも体育館で過ごすには困難な人が僕達の施設に来た。先輩たちは、
「理事長が連れてきたのよ。福島から。人助けはいいけど定員オーバーしたら、それこそ施設の危機よ」
「うん。助けようと思うのは簡単だけど、面倒看るのは私達なんだから」
福島から来た利用者の藤島さんは夕ご飯をお出しすると、
「まあ、こったらごちそう。本当申し訳ないです。久しぶりだっちゃ。こったら食事」
「藤島さん福島から来たんですよね?」
「はい。昨日来たんです。これ食べ終えたら、もう福島に帰らねば。娘は本当なにしてんだろう?」
藤島さんはアルツハイマーがあるが、ここに来たのは昨日ではない。もう半年も前からこの施設で暮らしている。
「食事も慈善事業でお出ししている訳じゃないのにね。お金も介護保険を使ってちゃんともらっているのにね」
みんなでそう話しているが藤島さんは体育館の避難所と、今の民家の施設がごっちゃになっているようだ。
藤島さんはおやつの残りをティッシュから出して他の利用者に、
「はい、おばあちゃん。食べて。お腹減ってるでしょ?生きていかねば。こんなときはお互い様だっちゃ」
きっとおやつで生き延びた記憶があるのだろう。
「もう福島の家はないんですよ。旦那さんね……」
藤島さんの旦那さんは津波で流され、亡くなった。藤島さんは、その現実をあるとき認識すると、自分の髪の毛をものすごい力で引っこ抜く。本当に百本、二百本の白髪が手でむしられる。
「藤島さん、落ち着いて。思い出しちゃったのね。もう大丈夫よ。ここにいれば大丈夫」
どんな夢だったんだろうよ。
正和さんは僕達にとって最後の江戸っ子。
もう日本から、本物の江戸っ子がいなくなろうとしているんだ。
「お父さんヒロエフに行くってよ。行くの?行かないの?」
「なんでもいい」
「なんでもいいじゃないよ。お父さんも寝てないで、今日はスーパーのヒロエフに行く日だよ。行くの?行かないの?もう玄関にバスがついてるよ。みんな待ってるよ。行くの?行かないの?」
「どっちでもいい」
「行かないのね。じゃあ、栗むしようかん買ってくる?」
「なんでもいい」
「買ってくるのね。もうみんな行くからね」
今日は週に一回のこの民家のような介護施設から、老人と介護員で、マイクロバスに乗って、スーパーのヒロエフに買い物に行く日。
僕はここ川崎の介護施設で働いている。
正和さんがまだ元気だった頃、よく僕達に浅草の話をしてくれた。漫才や落語、手品、演芸、そんなものが浅草にはあった。
「浅草もさびれたねえ」
浅草育ちの正和さんはそう言う。
僕達にとってもう、この時代から消えようとしている最後の生粋の江戸っ子の正和さんと僕は思えた。正和さんに僕は訊いた。
「正和さん。江戸っ子になるにはどうすればいいんですか?江戸っ子ってどんなもんですかね?」
「江戸っ子ねえ。まあ、理屈っぽくないことだな。でも東京も川崎も同じよ」
そんな正和さんも最近では寝たきりで、ここ川崎の施設に来て三年経った今では、ほとんど日中から寝ている。
夫婦で入居しているが奥さんの菊さんは旦那の昔話をする。
「お父さんね。昔ね。千葉まで競馬に行ってね。電車賃も使っちゃってね。千葉から歩いて帰ってきたの。そんな人いる?」
「それで負けたのはお前が行ってらっしゃいって言わなかったからだって。私のせいにするの。そんな人いる?」
二人は昔よく喧嘩をしていたそうだが、なんだかんだ言って仲が良さそうだ。
二人は相部屋で、夜は二人で施設公認の焼酎の入った滋養強壮の健康ドリンクを飲みながら、僕の名前を出して、
「健一がさあ」
とわが子のことを話すように、僕の話をしていると、一緒に働いている僕の嫁が教えてくれた。僕と嫁はこの施設で出会った。嫁は夜勤のときよくあの夫婦が僕の話をしているところを見ているそうだ。
僕はレクリエーションで今時のジョークを言うとほとんどの人が笑わない。数少ない人が低く笑うだけだ。正和さんが元気だったとき、レクリエーションの司会で僕が、
「私が大きなプールに行ったんですよ。いろんなワイン風呂とか、緑茶風呂、日本酒風呂、その中に死海風呂ってのがありましてね。すごい濃度の高い塩水のお風呂なんです。ただ注意書きに擦り傷などけがのある人はご遠慮くださいってあったんです。どこもけがなんてないから大丈夫だよなあと思って入ったんです。入った途端ギャーと思いました。私切れ痔だったこと忘れていたのです。もう死海風呂から出てお尻を抑えながらひょこひょこ内股で歩き回って」僕は実際にみんなの前で内股でお尻を抑えながらひょこひょこ歩いた。普段早い話についていけない高齢のおばあちゃんも、ひょこひょこ歩く姿がおかしいのは感じ取れ、そのときは利用者みんなが笑った。
そんな冗談を正和さんはいつも以上にオーバーに笑って、レクリエーションが終わった後、僕に、
「みんなで笑える笑いじゃないとダメ。みんなで笑えなきゃダメよ」
そう言った。そういった形で僕は正和さんのリアクションを頼りに、お年寄りの趣味嗜好を学んでいった。
正和さんと菊さんには本当の子供がいるのだが、二人ともほとんど子供の話をしない。
あるときのレクリエーションでDVD体操をして僕がレクの担当してるとき、菊さんが、
「健一君も変わったねえ」
そう言った。
「偉くなると変わるもんだねえ」
「何が変わったっていうんですか?私は一生懸命やってますよ」
「軍隊式になった。昔はもっと冗談とかいっぱい言ってた」
二人が入居したての頃、この施設はまだ立ち上げたばかりで、ほとんど入居者がいなかった。だから結構お茶らけた冗談を言って、レクリエーションも脱線して、みんなで笑い合っていた。
あの頃は施設も赤字だったけど、職員三人に対し、入居者も三人というありえない人員配置だった。だからあのときだからこそできたことがある。
そのときは正和さんも寝たきりでなく、僕達のレクリエーションに、一本だけの歯を見せて、手を叩いて笑っていた。
今は七人の入居者プラス一日数人のデイサービス利用者がいる小規模多機能型施設だ。
十数人の利用者に一人でDVD体操をやったりする。自転車操業にならないようにするのが、ここ民家を借りた施設のメリットだが、やはり立ち上げ当初の頃のようにはいかない。
あるとき、思わぬ訪問者が訪れた。六十歳くらいの男性だ。
「亀田夫婦はいますか?」
亀田夫婦とは正和さんと菊さんのことだ。
この男性は亀田夫婦の子供だという。子供とはずっと連絡を取っておらず、縁も切れていたと聞いたが。
職員の一人も「正和さんも昔、遊びたい放題遊んだんだ。子供は苦労したと思うよ」
そう言う。
いつもチャキチャキの江戸っ子の正和さんとは想像もつかない、まるで公務員のような真面目な男性だった。医療機器を扱ったサラリーマンをしているのだという。きっと苦労もしたのだろう。
他にも入居している利用者がいるが、訪問してくれる子供なんてほとんどいない。
利用者の中で福島から来た人がいる。震災のとき、体育館で過ごしていたが、高齢のため体力的にも体育館で過ごすには困難な人が僕達の施設に来た。先輩たちは、
「理事長が連れてきたのよ。福島から。人助けはいいけど定員オーバーしたら、それこそ施設の危機よ」
「うん。助けようと思うのは簡単だけど、面倒看るのは私達なんだから」
福島から来た利用者の藤島さんは夕ご飯をお出しすると、
「まあ、こったらごちそう。本当申し訳ないです。久しぶりだっちゃ。こったら食事」
「藤島さん福島から来たんですよね?」
「はい。昨日来たんです。これ食べ終えたら、もう福島に帰らねば。娘は本当なにしてんだろう?」
藤島さんはアルツハイマーがあるが、ここに来たのは昨日ではない。もう半年も前からこの施設で暮らしている。
「食事も慈善事業でお出ししている訳じゃないのにね。お金も介護保険を使ってちゃんともらっているのにね」
みんなでそう話しているが藤島さんは体育館の避難所と、今の民家の施設がごっちゃになっているようだ。
藤島さんはおやつの残りをティッシュから出して他の利用者に、
「はい、おばあちゃん。食べて。お腹減ってるでしょ?生きていかねば。こんなときはお互い様だっちゃ」
きっとおやつで生き延びた記憶があるのだろう。
「もう福島の家はないんですよ。旦那さんね……」
藤島さんの旦那さんは津波で流され、亡くなった。藤島さんは、その現実をあるとき認識すると、自分の髪の毛をものすごい力で引っこ抜く。本当に百本、二百本の白髪が手でむしられる。
「藤島さん、落ち着いて。思い出しちゃったのね。もう大丈夫よ。ここにいれば大丈夫」
作品名:かけがえのないものがほしい 作家名:松橋健一