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辻褄合わせの世界

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                  第一章

「先生、ちょっと来てください」
 病室に、一人の看護師の声が響き渡った。この部屋には他に入院患者はおらず、明るさだけがやけに気になっていた。
 個室に入院しているのは、一人の少女だった。病室の前には、
「山下美奈」
 という表札がかけられていて、一人では少し広すぎるように思える病室の奥のソファーに、一人の男性が眠っていた。
「お兄さんも起きてください」
 看護師に「お兄さん」と呼ばれた男性は、最初眠い目をこすりながら、何が起こったのか分からないという表情をしていた。たぶん、自分がどこにいるのかすら、分かっていなかったのかも知れない。
 だが、そこがソファーの上で、身体に痛さを感じる目覚めを覚えた時、自分がどこにいて、何を待っていたのかを、次第に思い出してきたようだ。
「看護婦さん、妹はひょっとして……」
 と声が裏がっていたが、それと同時に、医者が他の看護師を連れて入ってきた。ただ、その様子に若干の興奮はあったが、切羽詰ったような感じではない。テレビでよく見るような修羅場は、そこにはなかった。
 時計を見ると、午前五時を差していた。早朝の街であれば、朝日が差し込んできてもおかしくない時間だが、この部屋は遮光カーテンになっているので、朝日を感じることはなかった。ただ、日差しを浴びてはいけないというわけではないので、任意にカーテンを開けても構わない。寝ている時は部屋を真っ暗にして寝ることがくせになっているようで、電気もすべて消されていた。そのため、「お兄さん」と呼ばれた男性は、付き添いには結構不自由していた。それでも、兄妹の絆が固いのか、文句一つも言わず、仕事が終わってから付き添っているのだから、優しい兄なのだろう。
 医者は、患者の下の瞼を軽く指で押さえ、さらに、片方ずつの目に懐中電灯を当てた。
「何か、思い出したことがあるなら、聞いてあげよう」
 と、優しく語り掛けた。
 少し白髪の混じった医者は、優しく声を掛けた。決して焦ることはしない。彼女が話を始めるのをじっと待っている。その様子を三人の看護師と、お兄さんと呼ばれた男性が固唾を呑んで見守っている。この環境に一番慣れていないはずのお兄さんだったが、決して焦ることはしないどころか、優しく妹に向かって微笑んでいる。患者はこの状況をどう感じているのか、誰を見つめるというわけでもなく、その場の空気は凍り付いていたが、冷たいものではなく、湿気を含まない乾燥した状態が、心地よく感じられるほどだった。
 次第に呼吸の荒さが感じられてきたが、やはり最初に緊張感というバランスが崩れたのは、患者の女の子だった。
 それにともなって、次に緊張から解き放たれたのは、お兄さんだった。呼吸の荒くなった妹を見て、心配しているのかと思えば、そうではないようだ。どちらかというと、安心した表情になっている。まわりの看護師たちも、少しずつ緊張感が薄れていくようだったが、医者だけは、相変わらず、彼女を見つめていた。それが、彼の医者としての感性であろう。
「呼吸が荒くなってきたのは、だいぶいろいろ思い出したからなのかも知れませんね。ただ、焦ることは決してしないでください」
 と医者が、お兄さんに向かって言った。それは、お兄さんが緊張感のバランスを崩してから、しばらく経ってからのことだった。
「分かっています。少しずつでもいいので、元に戻ってくれれば、私は嬉しいと思います」
 お兄さんが言った、
「元に戻ってくれれば」
 という言葉に、違和感を感じた人が、その場にいただろうか? 逆にその場で違和感がなかったということは、それだけその場の雰囲気が異様だったということに違いない。
 美奈という妹が、記憶を失った。ケガはほとんど治っていて、精神的なショックと、記憶の欠落だけが、美奈の中には残ってしまった。
 兄はそのことを甘んじて受け入れ、記憶を失う前の妹に戻ってほしいと思っている。
 しかし、記憶を失う前に戻るということは、本当に美奈にとっていいことなのだろうか?
 兄は、美奈がここに運ばれてきた時の状況を分かっている。警察でいろいろと聞かれたりもした。
「妹は自殺を企てるような娘ではありません」
 と答えたが、ふと、自分が妹のことをどれだけ知っているのかと言われると、何とも言えなかった。
 兄は、大学を出てから都会に就職したが、妹は、最初から都会の大学を目指し、見事合格。昨年、無事に卒業し、OLとなって二年目を迎えていた。
 妹が、一年生の時、三年生だった兄の紹介で、同じ研究室で研究をしている男を紹介してやったことがあったが、その彼と半年ほど付き合っていたようだが、破局を迎えてからお互いに連絡を取りにくくなったのは事実だった。紹介した手前、紹介してもらったのに別れてしまった手前、お互いに気まずい思いになったのだろう。
 兄からすれば、その妹が、ケガをして入院、しかも、記憶が欠落しているというではないか、しかも警察に呼び出されたことで知るなど、ショック以外の何物でもない。
「妹さんは、交通事故に遭われたんですが、フラッと、道路に飛び出したという目撃者の話もあります」
 相手をした刑事の声は、あくまで冷静で、
「どこに感情が含まれているんだ?」
 と思ってしまうほどだった。
 それが取調室であれば、さすがに萎縮してしまうだろうが、別に容疑者を相手にしているわけではないので、刑事課のソファーで事情を聞かれた。まわりの喧騒とした雰囲気の中で二人の会話は静かなものだったが、それだけ心臓の鼓動の激しさが感じられるほどだった。
 兄は、妹の記憶が戻ったと聞いた時の感覚と、警察で刑事と対峙した時の印象が似通っていたのを感じた。患者の女の子は、兄と呼ばれるその男性に対して、一度も笑顔を見せることはなかった。記憶が戻ってきたと言っても、まだまだ意識できるところまでは行っていない。それでも、病室には明るさが戻ってきたようで暖かさが感じられたが、兄と呼ばれたその男性が、この病室に来ることは、二度となかったのだ……。

 そろそろ夏が近づいてきたというのに、夜の風は冷たかった。
「肌を刺す寒さっていう言葉があるけど、そんな感じなのかも知れないわね」
「さすがに美奈は詩人よね」
「そんなことないわよ」
 美奈は、趣味で学生時代からしていたポエムを書くことを続けていた。学生時代にはサークルに所属していて、同人誌にもいくつか投稿したり、コンテストにも応募したりした。表に出るような結果は得られなかったが、趣味としての継続が、今の美奈を支えているのは間違いのないことだった。
 そうでもなければ、照れたりなどしない。美奈の性格からすれば、表に出ないような作品しか書けないのであれば、まわりの人に、恥かしくて、
「ポエムを書いている」
 などとは言えない。それでも話をしてしまったのは、継続というものが貴重な経験に繋がることを知ったからだった。
 美奈は、その日デートの約束をしていた。相手は学生時代の同級生で、いつもの場所でのいつもの時間、それはずっと変わっていなかった。
作品名:辻褄合わせの世界 作家名:森本晃次