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御手紙 葉
御手紙 葉
novelistID. 61622
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彼女はまだ猫のままで

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「私は突然その運命に絡め取られてしまったんだよ。気付けばテレビの中で芸能人として活躍してたの。それは本当にふとした昼下がりに見た夢のように現実味のないことだったよ」
「それでも、こうして君はまた日常に戻ってきた訳だ」
 彼女は僕の半歩前を歩きながら、くるりと振り返り、悪戯っぽく笑った。そこにはどこか涙の余韻があった。けれど、彼女はその潤んだ瞳を崩れさせようとはしなかった。曇り空が必死に涙を堪えているような、そんな表情だ。
「寒い中、歩いてきたの?」
「近くにマネージャーがいるからね。君が昔の恋人だと疑ってる」
「恋人だか友人だかどうでもいいけど、君はとにかくつらくとも元気にやっているようで良かったよ」
 僕が大嫌いな女優は、その運命を嫌ってはいないようだった。かつて大好きだったその少女は、女優になってしまって、僕はその仮面が嫌いで、彼女をできることなら掻っ攫って取り戻したかった。けれど、彼女は女優になっても大好きなままの彼女だった。
 ようやく彼女への恨みのようなものが消えていき、僕は彼女と並びながら黙ってその曲がりくねった坂道を上り続けた。微かに雨がぽつぽつと降り始めた。それは彼女の瞳から堪え切れずに雫が落ちているのかもしれなかった。
「私はもう行くよ。君は今、何してるの? 私が女優をしている傍ら、淡々と岩波文庫を読み漁っているのかな?」
「僕にも目標ができたんだ。今は司法試験の勉強をして、毎日頑張ってる、つもりかな。たまに嫌なことはあるけど、テレビを見ると大嫌いな女優が出てて、やり切れなくなることがあったけど、今度から、それは元気をもらう瞬間になるだろうね」
「私がテレビに出て、君を元気づけることができるのなら、それは本当に私が願ってる幸せの一つだよ」
 僕らはいつも幸せの話をしていて、どこか哲学的なことばかり考える節があった。でも、たぶんそれが僕らなりの青春で、それを考えている時、僕らは毎日を生きる楽しさを思い出したに違いない。僕の隣には彼女がいて、彼女の隣にはいつも肉まんとミルクティーがあった。その変わらぬ日常こそ、彼女の探し求めていた海の奥底に沈んだ宝物だったのだ。
「じゃあ、ここまででいいよ」
 彼女は最初に立っていたその細い坂道の中程で止まると、どこか引き攣った笑いを見せた。それは束の間の日常で、彼女はすぐに非日常へと帰らなくてはいけなくなる。その世界がどんなものか、僕は知らない。けれど、彼女の落とした涙の意味だけは知っている。だから――。
「つらくなったら、いつでもここに来ていいよ」
 僕がそう言うと、彼女が唇を引き結んだ。その表情は滑稽だった。何かを必死に抑えて、唇を引っ張って、顔を歪に曲げていた。けれど、じきに唇の隙間から嗚咽が漏れ出した。涙が流れ出した。それは曇り空から滴る雨と重なり、僕に寂しさの幻影を焼き付けた。けれど、もう語る言葉は決まっていた。
「もう駄目になりそうで、ここに来たんでしょ? 僕は君が頑張ってる姿を見て、応援しているから。僕が頑張っている時、君が頑張っていると思ってる。君が泣いていたら、きっと僕も泣いている。だから、僕が一緒だと思って、君も頑張って」
 彼女は目元を掌で抑えて、肩を震わせていたけれど、どこか涙声でそうつぶやいた。
「私、どうしたらいいのかわからないの。もう訳がわからなくて、どうしたらいいのか、道が途切れて立ち止まってるの。ブロックに片足乗せたまま、途方に暮れてる。そしたら、君がやって来たから」
 僕はそっと彼女に近づき、持っていたお守りを彼女に渡した。彼女はそれを受け取り、わずかに感じられる温もりを驚いたように掌に感じている。
「僕が司法試験に受かる為に歴史のある神社で買ってきたものだよ。それを君にあげるから。それさえあれば、僕らは夢を共有できてる。曇り空の向こうに光を見つけられる。だから今は、ずっと泣いていていいんだよ」
 彼女はそのお守りをじっと見つめて身動きを止めた。そして、何かよくわからない声を零しながら僕の前で泣き続けた。その泣き声は悲痛で、凄惨で、そして彼女の血の涙となるものだった。でも、僕は拭き取らず、彼女の全ての汚濁を流れさせ続けた。そこにはもう、彼女を見守る大切な気持ちしかなかった。
「わかった、よ。私も、がんば、る。がんば、る、よ」
 彼女はそう言って、硝子が弾けて煌めいたような、笑みを見せた。涙が散って、宵闇に光り輝いたその硝子の瞳は、僕の胸に確かな決意を芽生えさせた。
「じゃあね。ありがとうね、美夕」
 僕がそう言って離れかけると、不意に一台の黒い車が現れ、彼女の前に停まった。無骨なドアが開き、彼女はふっとこちらに振り返って、笑みを見せる。
 笑顔と視線が繋がって、僕らは林を挟んで想いを分かち合った。
 お守りに溶け合ったその想いは、彼女の胸に火を点けて、車に吸い込まれてドアが閉じられる。エンジン音は無神経に弾け、車は赤い残像と共に夜に消えていく。でも、それは優しい光となって僕の目に染み付く。彼女の笑みがガラスの先に、ふわりと涙と共に花咲いた。
 僕はいつまでも車を追っていた。その影が消えると、林の間の道を歩き出し、閑散としたそのアパートへと戻っていく。美夕も頑張ってるんだから、僕も頑張るよ。司法試験の勉強を続けていくその日常は、一人の非日常と共に、微かに暖かく湿っていく。
 曇り空の雨は、素敵な再会の涙に変わる。

 了