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御手紙 葉
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novelistID. 61622
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彼女はまだ猫のままで

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彼女はまだ猫のままで

 僕には大嫌いな女優が一人いる。でも、元はと言えば、それは大好きな少女だったのだ。
 僕は誰にも見られないようにその一文を手帳の片隅に書き留めて、しっかり胸の奥に仕舞っておく。もう道を間違えることがないように、深くきつく心に結び付けて。

 *

 僕はたった今、テレビを見ていたら大嫌いな女優が出てきたので、すぐにテレビを消し、束の間の休憩の時間を、コンビニへと通うことに費やすことにした。もうすっかり夜だったけれど、肌寒い夜道を歩きながら想いを巡らすのは嫌いではなかった。
 アパートを出ると、左右が鬱蒼とした木々が立ち並ぶ坂道に出て、そこには街灯などはほとんどなく、少し物騒だ。けれど、もう大学に入学してからずっと通い慣れた道だったので、今となっては逆にこの暗さがないと落ち着かないくらいだ。
 何度も心に刻んでいたことだったけれど、僕はいつも坂道を降りて、なだらかな曲がりくねった他の坂道と合流するところでいつも立ち止まって自分の決意を確かめる。それはほんの少し神頼みに似ていたけれど、結局は自分の努力次第といったところだろう。
 司法試験に合格しますように。
 僕は小さく声に出してつぶやいてから、もう一度歩き出した。最近はもうずっと家と大学の図書館で勉強をずっと続けている。何かを志すことがなかった僕は、ふと心の中に道筋を辿り出し、今ではそれに向かって猛勉強している。何もせずにぼんやりしていた頃に比べれば、遥かに毎日が楽しかった。
 元々勉強は嫌いではないし、専門書を読んだり大学の授業を受けるのはとても好きな方だった。大学は楽しいけれど、自分に打ち込むことがあるのは、もっと楽しいことだった。僕はブロックの横の道をゆっくりと歩いていたけれど、そこでふと――そのブロックに片足を掛けるようにして、立ち竦んでいる一人の少女を見かけた。
 ちょうど僕の進む道の先に中央に立ち尽くし、僕をじっと見つめていた。背中へと伸びた長く黒い髪は街灯の光できらきらと艶やかに煌めき、クリーム色のコートを着ていて、短いスカートを履いていた。そこから覗く足は蹴れば折れるんじゃないかと思うくらいに可哀想なぐらい細い。
 でも、僕が一番惹きつけられたのは、その凛とした、ささくれ立ったガラスの破片のような表情だ。どこか凶暴そうな、それでいて小さな鳴き声を上げて甘えそうな、ライオンなのか猫なのかわからないような顔をしていた。
 僕をじっと、射抜くように見つめてそしてすっとブロックに乗っていた片足を降ろした。真正面に向かい合い、僕はただ沈黙して、夜の闇に溶け込むしかなかった。
「久しぶりだね」
 その少女は大して再会を嬉しく思っていないような口ぶりで、そうつぶやいた。僕はそれには答えを返さなかった。その代わりに、「もうここには来ないのかと思ってたよ」と乾いた冷たい声を出した。
「来なかったんじゃなくて、来ようにも来れなかったんだよ」
 彼女の口からようやく本心のようなものを聞けた気がした。その言葉に至るまでに、随分と沈黙のやり取りがあったのだ。彼女は僕を忘れてしまったんだろうと思っていたし、僕は実際、彼女のことを忘れていた。それはその人が目の前から消えれば、その人の顔が朧げな影に薄くなるような錯覚に似ていた。
「元気にしてた?」
 僕はまた、それには答えなかった。ゆっくりと彼女の横を通り過ぎ、歩き出すと、彼女は狭い道なのに僕の隣に並んでゆっくりと付いてくる。もう僕の足がどこに向かっているのか、わかっているみたいだった。
「私が突然ここから消えたから、どうしたのかと思ってた?」
「僕のことを忘れて、別の場所で暮らしているんだろうとは思ったよ」
「忘れる訳ないじゃない。今でも、忘れてないよ」
 彼女はそう言って僕へと顔を伸ばして覗き込んできて、ようやく硝子が溶けたような、綺麗な笑顔を見せた。
「でも、何の言葉もなく、何の前触れもなくいなくなって、そのまま何年も戻ってこなかったから、僕としてももう忘却の彼方に君のことを葬り去っていたよ」
「だから、それは謝るよ。でも、今だからこうして君のところに来られたんだ」
 彼女はそう言って、道の先に見えてきたそのコンビニの明るい光の方向へと視線を向け、楽しそうに笑った。いつも仏頂面をしているようで、案外彼女は素直な言動をいつも繰り返す癖がある。それは彼女がライオンになどなれなくて、いつも猫のまま僕に甘えてきたのを知っているからだ。
「本当にびっくりしたよ。幻影でも見ているのかと思った」
「幻影ね。確かに、君が昔見ていたのは、私の幻影かもしれないね」
 彼女はそう言って本当に楽しそうにからからと笑った。その笑いは屈託がなくて、あの頃と全く変わっていなかった。彼女は昔からこのコンビニへと続く道に立って僕を待っていて、ちょうどこの時間になると僕がアパートから出てくるのを知っていたのだ。
「それにしても、僕は君がいなくなってからどこか気持ちが落ち着かなかったよ」
「そうだろうね。私、君には何も言わなかったし、何でいなくなったのか、否応なしに君も日常を生きていればわかるだろうし」
「でも、僕が見ていた君の幻影は、やっぱり幻影だったよ。今ここにいる君の方が、生身って感じがする」
「この夜道を歩いている私こそ、本当に生身の人間の姿なのよ。息苦しい世界でいつも生きているから」
 そうして僕らは傍から聞いたら全くわからないような会話を繰り返しながら、コンビニへと近づいていく。コンビニは駐車場に一台も車が停まっていなくて、閑散としていた。しかし、その淡い光だけは鬱蒼とした林が続くこの界隈の、美しい都会のネオンのように目に優しく染み付いた。
 僕らはコンビニに入り、缶コーヒーとミルクティーを買った。肉まんと男爵コロッケを買った僕はそれを一つ彼女にあげながら、コンビニを出て元来た道を引き返し始めた。
「それにしても、まだこの習慣続けているのね。夜のこの時間になると、コンビニに買いに行くという……」
「君もよくあそこで僕を待っていたよね。わざわざあそこで待っていたのは、心が落ち着くから?」
「これが日常、って気がしたんだ。君の顔が見たくてね」
 彼女は肉まんに猫のようにぱくぱくと盛んにかぶりつきながら、夜の闇に沈んだ坂道の周りに等間隔に並んでいるオレンジ色の街灯の光を優しい眼差しで眺めた。それは彼女がテレビの中では一度だって見せたことのない、生きた人間の心地がする表情だった。
「女優なんてやってると忙しくて生きた心地がしないでしょ」
「仕事は好きでやってることだから。でも、確かに生きた心地はしないことがあるよ」
 彼女は肉まんを食べながら粕をコンクリートの地面に落としてしまい、慌てて口に付いた肉汁を指先で拭っている。僕はようやく笑みが零れて、彼女にポケットティッシュをあげた。
「こういう日常こそ、本当に一番幸せなものなんだって、今になって思うよ。私、君とたまに会って夜道を歩くこの時間が、あの頃から一番の支えだったからさ」
「なら、なんで消えたんだよ。女優になることを決めたのは、いつから?」