詩集【紡ぎ詩Ⅳ】~始まりの季節~
背後にはただ明るい日溜まりの色を点した花があるばかり―
☆『カフェ・アラモード』
お気に入りのコーヒーと小説を楽しみながら
ゆったりと心からくつろいでいるときのような気持ちで
さあ 歩き出そう
真っ白なコーヒーカップみたいな明日に
私だけの物語を描けば
カップから立ち上る湯気の向こうに
未来の自分の笑顔が見える
―それは誰にも描けない
私だけの夢・ものがたり―
☆「花の降る音」
秋がかなり深まってくるこの時季になると
どこからともなく流れてくる芳しい香り
それは庭の柊の花の香りだ
初めて知ったときは愕いた
白い小さな花びらをたくさんつけた柊の花は
強い風が吹くと一斉に舞い上がる
まるで雪の花びらが風に舞い踊るように
無数の純白の花びらが空(くう)を流れゆく
花びらが舞う光景に目を奪われている中に
かすかに聞こえてくる
さらさら
さらさら
何の音かとよくよく耳を澄ませてみたら
柊の花びらが舞い散る音だった
何とも不思議な音色は
よほど神経を集中させていなければ聞き逃してしまう
かそけき 儚き音色
まさに花たちの語り合う囁きのよう
また今日も風が吹く
さらさら
さらさら
細やかな花びらは身を震わせながら
秋の空をいずこへともなく漂い流れて消えてゆく
クリスマスの聖なる木―そのイメージにふさわしい
清冽で凛とした香りを胸一杯吸い込みながら
私は柊の見える廊下に佇み 眼を閉じる
清らかな香りが
淀んだ心を洗い流してくれるような気がして
☆『灯火~ともしび~』
秋の日、日用品の買い出しの帰り道、夫の運転する車で山道を走っていた。ふとカーラジオから流れてきた科白に興味を引かれた。
「次は岡山県の○○さんからの投稿です」
岡山というフレーズに反応したのは間違いなく、やはり同郷のよしみから続きが気になった。その番組は一般の視聴者から川柳の投句を募り、専門家が秀作を選んで番組内で発表するものらしい。アナウンサーの穏やかな声は続いた。
「私は七十歳からボケ防止に川柳を始めました。以来、ずっと投句を続けていますが、一度も採用されておらず、没ばかりです。それでも懲りずに番組が続く限りは投句を続けたいと思います。どうか長く番組を続けて下さい」
女性の川柳作家の回答が続いた。
「とても良い考え方ですね。没になったとしても、ご自分の作った作品は残ります。ずっと作り続けてきた作品がご自分の歴史、自分史のようなものになると思いますよ」
男性アナウンサーが相づちを打った。
「作り続けた川柳が自分の生きた証になるということですね」
「そのとおり、いわゆる自分の歩いた足跡のようなものとして、川柳が残るわけです」
川柳作家が明るい声で応えた。
「たとえ作品が採用されなかったとしても、川柳を作るために色々と考える時間、そういう時間そのものが作る人にとってはとても貴重なものになるのです」
「作品を考える時間そのものが貴重なんですね」
と、アナウンサー。
ごく短いやりとりであったが、私は随分と考えさせられた。川柳であれエッセイであれ、投稿するからには採用されたい、陽の目も見たいという想いがあるのは当然だ。けれども、採用されるのはこの番組に限らず、どんな場合でも、ほんのひと握りの作品にすぎない。
それでも没になったからといって諦めるわけでもなく、淡々と投句を続けたい、番組が続く限りは諦めないというリスナーの言葉、対して川柳を作る時間そのものが大切で、作品そのものが生きた証として残るという作家の考え方に心を強く揺さぶられた。そのさりげない言葉から、川柳や川柳を作ることへのリスナ―、作家それぞれの強く真摯な想いが伝わってきたからだ。
これは何も川柳だけでなく、すべての物作りをする人―文芸作品、美術、陶芸、写真など、あらゆるジャンルの芸術に通ずる考え方ではないかと思う。例えば、私はこうしてエッセイを書いているが、一年前に書いた作品を読めば、その頃、自分が何を考え何をしていたのかが判る。数年前の作品であれば、書いた本人でさえ忘れている出来事がある。
エッセイを読むことによって、過去の自分を振り返ることができる。まさに、たくさんの作品が自分の生きてきた道そのものなのだ。なので、ラジオの川柳作家の言葉は心底から共感できるものだった。
エッセイを長らく書いていると、たくさんの人に読んで貰いたいと願うようになる。次は何かしらの形で作品を評価して貰いたいという野心といえばいささか大げさだけれども、欲求をいだくようになる。野心は向上心や意欲にも繋がるから、いちがいに否定ばかりはできない。が、評価だけに拘り過ぎると、自分が一体、何のためにエッセイを書いているのか、初心を忘れる。上手に書こう、評価される作品をと願いすぎるあまり、作品作りに純粋な気持ちで取り組めない。
下手なエッセイを書き始めて、もう二十五年が経過した。まさに私自身がいつしか初心を見失い、評価ばかりを気にするようになっていたように思う。二十五年間の歳月では、色々なことがあった。満を持してとまでは言わないけれど、そこそこの期待をこめて投稿した作品が見事に没になったときもある。そんなことが何度か続いたときは自分の拙さを棚に上げて、運のなさを嘆いた。
けれども、ある時、ふっと気づいたのだ。自分は何のためにエッセイを書いてきたのだろうか。これからも書き続けてゆきたいのか。
出てきた応えは、とてもシンプルなものだった。自分は書くことが好きだから、自分の考えたこと、体験したことを文章として表現したいから。その瞬間、長らく私を縛り付けていた枷が外れた。何のためにエッセイを書くのかを再認識した時、「書く」楽しさを改めて思い出したともいえる。
わずか数分のラジオで聞いた会話が私の進むエッセイ道のゆく先に小さな灯りを投げかけてくれた。私が我に返った時、既に車は山道を走り終え、街に入っていた。思わず名残を惜しむように振り返った視線の先に、紅く色づき始めた木々が山肌を飾っている。番組が続く限り、投句を続けるという七十代の男性の言葉が改めて脳裡に甦った。
☆『幻湖』
ガタン ガタン
眼を瞑って列車の車輪が静寂の底に響き渡る音に耳を傾ける
何気なしに眼を開きハッとする
車窓越しにひろがる風景に釘付けになった
視線の先―はるか彼方まで一面の湖
白い神秘的な水をたっぷりと湛えた巨大な湖が
今 まさに眼前に拓けている
突如として 数羽の雀が群れをなして湖面めがけて飛んできた
―ああ、落ちる!
雀たちは水鳥ではない
大丈夫かと恐る恐る眼を開いた私の眼の前で
奇跡のような光景が起こった
雀が湖面に舞い降りた瞬間
サァーッと紗(うすぎぬ)のカーテン(帳)が開くように
湖面がぽっかり二つに割れて
下からに無限にひろがる田んぼが現れたのだ
何だ そうだったのか
自分の勘違いに思わずこみ上げる苦笑い
私が見たのは湖ではなく
早朝 田んぼを覆う一面の朝霧だった
けれども 私は確かに見た
そこにあるはずのない 果てしなく広がる美しい湖を
見慣れている人には
当たり前の風景に違いないだろうが
作品名:詩集【紡ぎ詩Ⅳ】~始まりの季節~ 作家名:東 めぐみ