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サヨナラの唄 【序章】

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序章




 一向に止む気配のない雨音が耳朶を打つ。
まとわりつく湿気に眉をひそめながら、ぱしゃぱしゃと水溜まりを蹴散らし男は足早に目的地に急いだ。一応傘をさしてはいるが、もはやあってもなくても同じくらいに男はずぶ濡れであった。
「……風呂に入りたい」
取り敢えず、早くこの水を吸って重たくなった着物を脱いで冷えきった体を温めたい。
男はそう切実に願った。腹も減っているがそれよりも遥かに風呂を切望している。欲を言えばその風呂の中で酒が呑めればより喜ばしいのだが、きっと友人らに止められてしまうだろう。
その様子を想像して、男は口元をほころばせた。
彼らはいつも自分を心配してくれる。ちょっと過保護なくらいに。
年から言えば男が一番年長であり、保護者な気分なのだが、どうも世話を焼かれている感が否めない。いや、実際そうなのだけれど。
別に風呂で酒を呑んでものぼせるとは限らないじゃないか。
そっと心の中で嘯いてみたが、果たしてその可能性がないかと言われると返事に困る。男には一度やらかしてしまった前科があるのだ。
その時の彼らの慌てようたるや、思い出すだけでも吹き出してしまう。ある者は青ざめある者は血相を変えて駆け寄り、ある者は卒倒した。
「……いかん、そんなことを思っている場合じゃなかった」
楽しい記憶に気を取られて足元が疎かになっていた。速度の落ちた足に力をこめ、さぁあと少しだと自分を励ます。
しかし、幾らかもしない内に男は足を止めることになる。
「――これは……」
血の臭いだ。
雨に混じって届いたそれに男は警戒の色を示した。嗅ぎ馴れた鉄錆びの臭い。馴れてはいるが、決して慣れなくはないそれ。
辺りを見渡せば所々に小さな薄まった血溜まりがあった。それを追えば、どうやら橋の下に続いているらしい。
 警戒心を解かず、いざというときのために腰に佩いてある刀に右の手を添える。
一歩一歩ゆっくりと、慎重に。全神経を研ぎ澄ませて歩み寄る。雨に混じって微かに、ともすれば気づかないほどに小さく、押し殺した荒い息づかいが聞こえた。
手負いなのは分かっていたが、どうやら相当酷いようだ。この雨の中でなお、血の臭いが酷く濃い。
男は若干目をすがめた。息が詰まるが、警戒はみじんも緩めない。
橋の真横、ぎりぎり死角になる位置まで来て、男はそっと目標に目を向けた。
――パシャっ。
水を打つ軽い音が響いた。嫌な予感がして、警戒すら忘れて飛び出した男の見たものは――……。
「……な……女の子、だと?」
そこに横たわっていたのは、想像以上の深手を負い血の気を感じさせないほどに青褪めた、まだ幼さのある顔立ち。小柄なその重体人は、どこからどう見ても少女であった。
 刹那の愕然から無理矢理脱け出した男は駆け寄った。早く手当しなければ確実に命はない。
 首筋に手をやれば、弱いながらに脈はある。しかし驚くほどに冷たい体温に男は焦燥した。急いで自身の着物を引き裂き簡易包帯を作って手早く止血し、少女を背負う。
 死なせる訳にはいかない。
 男はこの近くにある知人の家まで走った。


 生気が極限まで薄まった青白い頬を包むように、血で濡れているにも関わらず、そのぬばたまの長い髪が艶やかに耀いていた。


作品名:サヨナラの唄 【序章】 作家名:波音渚