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 上司は、指導員として、研究発表に関わることになっている。だから仕事の傍ら私の指導に当たる。タイミングの悪いことに当時、業界は関連法規の改定により、新たな方式の製品の開発競争の最中にあった。いかに他社よりも早く製品を世に出すか、プロジェクトが立ち上がり上司は、その中堅設計者として多忙を極めた。発表のネタとしては、この上ない開発内容だが、一刻を争う開発、しかも前例のない方式の設計をしながら、私という「なかなか育たない部下」のために、仕事を教え、発表の指導をする。上司の忙しさは想像を絶するものがあったに違いない。
 
 発表の最中。気になったのは、上司の反応だった。
「発表は、いろいろな人に目を配りながらやれ。」
 という教えを破らない程度に上司の反応を見ながら発表していた。
 発表を終えた後、一足先に仕事に戻っていた。上司のデスクへ真っ先に向かった。
 挨拶とお礼を言い深々と頭を下げた。
 何を言われてもいい。俺はやったのだ。でも駄目なモノは駄目。そういう世界だというのはもう理解している。
 頭を上げる前の一瞬で私は覚悟を決めていた。
「100点だ。」
 上げようとした頭の下からの意外な言葉は、耳では聞き取れていても脳が処理できなかったらしく、意味不明な言葉として届く
「へっ?」
 顔を上げた私に上司が笑顔を向けていた。それは私へ向けたことのない種類の笑顔だった。
「満点だ。お疲れさん。」
 もう一度言われて、理解した私の目に涙が溢れてきた。この歳で、大の男が、しかも職場で、あろうことか上司の前で、いろいろな言葉が一瞬で頭に浮かんだ。でも不思議と恥ずかしくは無かった。
「顔洗ってこい。おれが苛めたと思われる。」
 右手で私を払う上司の顔にはまだ笑顔があった。
「ありがとうございました。」
 それしか言えなかった。
 
 それから数ヵ月が過ぎ、上司は、開発された製品を元に特殊な客先ごとに設計を行うライン設計という部署へ移り、私は別の機種の開発に組み込まれ、新たな上司についた。その頃までには赤ペンは少なくなり、一発で審査・承認をクリアすることも出てきたが、あれ以来最後まで「満点」は貰えなかった。あの先輩から仕事で頼りにされたい。そう思って頑張り続けたが、それは叶わなかった。
 あの発表から数年後、私も初めての部下を持ち、いつか耳にした。
「部下を育てるのは疲れる。すごくエネルギーを使う。お前も部下を持てば分かる。」
 という言葉を実感し始めた頃、あの先輩。。。私の最初の上司は、転職した。
 いろいろな職場の先輩も集まった送別会が盛り上がって来ると、「あの頃」の話になった。
「○○(私の名前)お前、よく辞めなかったな〜。ありゃあ公開SMだったもんな〜。」
 当時、ライン設計に所属し、開発品の製品展開に向けて開発設計と密接に仕事をしていた先輩が言うと、どっと笑いが起こり、みんなが異口同音に元上司をからかった。
「やめて下さいよ〜。」
と言いながらも元上司は機嫌よく笑っている。
 私は、どう反応して良いか戸惑い、苦笑しているしかなかった。
「あいつは、一生懸命だったんだ。お前が最初の部下だったからな。」
 送別会が終わりに近づくと、最初に公開SM呼ばわりした先輩が私にぼそりと呟いた。
 私は、当時を思い出し、そして今、同じように自分の部下を育てていることに気付くと、目頭が熱くなった。
 一生懸命育ててくれたから、今がある。
 数年後、ある事情で転職した。今までの仕事とも、転職したあの上司とも完全に別の業種だ。仕事で関わることは、二度とない。自分で言うのもなんだが、かなり競争率の高い転職先だった。
 私は思う、あの会社でやってこられたのも、転職できたのも、そして今、転職先でやっていけてるのも、全てあの上司が育ててくれたおかげだ。と、、、遠い地へ転職したあの上司とは会う機会は殆んど無いが、感謝の気持ちを忘れたことは無い。
「部下を育てるのは疲れる。すごくエネルギーを使う。お前も部下を持てば分かる。」
 私もその言葉を部下に言えるように仕事をしてきたし、これからもそうすると心に誓って生きている。
 転職した今の会社は、ひと言でいえば、「やたらと作文を書かせる会社。」
 それは入社式の翌日から始まった。新入社員教育で様々な会社幹部の講義を受けては感想を書く日々。「何だこの会社。作文ばっかり書かせて、俺は作文が苦手なんだ。」
 心の叫びは思っていても口には出せない。ここで目を付けられたら即無職だ。耐えるしかない。
 研修が終わったらさすがに作文は書かせないだろう。

 それが甘かった。
 職場に配属になって1ヶ月くらいか、伝えたいと考えていることを書け、という。
「入ったばかりなのにそんな考えなんかあるわけないだろ。」
という嘆きも心の底にしまっておく。転職してすぐ無職では、前の会社の仲間たちへの面目が立たない。そもそも、妻子持ちでそれはまずい。
 我慢だ。
 その作文コンテストはテーマこそ毎回違うが毎年恒例だと言う話を後から聞き、さらに気分が沈んだ。 メインがサービス業なためか、それとも独特な文化と技術の伝承を重んじるのか、はたまたその両方なのか、私には分からないが、なんだかんだで作文を書かされる。
 「やたらと作文を書かせる会社。」
 どうやら私の印象は正しかったらしい。
 それが幸か不幸か、、、やっぱり不幸だろうな。。。
 と、私は思っていたが、何故か作文を書くこと自体に苦労はしなかった。
 それどころか、震災の年には、震災の体験をまとめた私の作文が職場の代表に選ばれ、県に相当するエリアで発表することとなった。
 苦手で、嫌いな私の作文が、認められた。
 そして、多くの人から感動の言葉を貰った。
 苦手で、嫌いな私の作文が、多くの人を感動させた。。。
 自分自身が信じられなかった。
 自分は、作文が苦手なはず。。。
 それが人に伝わり感動すら与えている。なぜ書けたのだろう。。。私は心当たりを考えた。。。
 原稿用紙8枚分の作文。。。当時の事を夢中で書いたら最初は10枚分あった。それを、発表の時間の都合上8枚に削ったのだが、確かにきちんと書けていた。しかもそれを書くことに全く苦痛を感じていなかったのを思い出した。苦慮したのは、描写の部分と、台詞の前後の文章だけだ。構成も文脈もすんなりイメージできた。キーボードを夢中で叩き、ひたすらに思いを文にしたためたのを思い出す。
 描写で引っ掛かった。
 当時の状況を作文で表すのは描写しかあり得ない。そこで躓(つまづ)いた。
 そうか、そういうことだったのか。。。
 赤いペン。。。
 思い当たる節があった。大ありだった。
 設計者だった頃に書いた数々の書類、そして指導してくれた上司の言葉と無数の赤ペンの手直し。。。そして同じように自分が部下の書類に付けた赤ペン。。。
 そう、私は、文章を書くことを鍛えられていたのだ、ジャンルは違えど仕事として。。。あれだけ指導を受け、書いてきたのだ。
 それで飯を食ってきた。家族を養ってきた。
 一般人としては、(同業者を除けば)かなり書いてきた方なのではないか。。。
 ならば、
作品名:モバイル艦隊 作家名:篠塚飛樹