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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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猫は死んだしおっさんは行方不明

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 田舎の一戸建てであるがゆえ、玄関にいちいち施錠なぞはしていない。声を聞いて、活きのいい佐川のお兄やんが、ちゃーす、とか何とか口にしながら、トステムのドアをチャスカッと引いた。驚いた猫が横跳びに逃げる。バン・ルージュの入った木箱を持ったお兄やんがこちらを見上げて凍りついている。格好が格好なだけに、自分は顔つきだけでも威厳を保とうとして、引き締まった目つきを試みたものだが、頭が下では効果のほどは知れている。尻尾の毛を逆立てた猫めが階段を駆け上がってくる。俺の頭を背中を足を、鉤爪を立てて、その瞬間。平日昼中に積みあげたジェンガが、ため息をついた。あああれよ、あらゆる忍耐、あらゆる忍辱、もはやこれまでと、音を立ててなだれ落ちる巨大雷魚四十八歳、趣味、仕事探し。威厳を保てず、猫にもなれず、発電能力も多分なし。すまん、お兄やん、そこ退けい。

 二日ほど塞ぎこんでいた。あまり早く立ち直っていても沽券にかかわる。蓋しこの世はひと筋なわではいかぬ。かように、意図的に、つね日頃とは少しく異なったアプローチをしただけで、自分を取り巻くものが異様な形相を返すことがある。
 それまでの自分はそれらの一面を見ていただけなのか。あるいは、この日常の向こう側には、似てはいるが別な日常が張り付いていて、何かの拍子で均衡が破れたときにそれを用いて補修をするようでもある。
 自分はやや理系で、傍証で固めるようなやり方は好まないのだが、この世界の破れ目から別な世界を案内するものは、十指に余ろうというものだ。
 近所に住むそれがしの母は、何か見かねるものがあるのか、息子の家に、じつにいろいろなものを運んでくる。その中に、ふたつかみほどの赤い唐辛子があった。鷹の爪と呼ぶ人もいるらしい。
 ──ええ色しとるやん。
 ──陰干しで置いとくと、じっきに乾燥するでな。そしたら粉にして料理にな。
 母は上がり框に、畑から抜いてきた葱の束と、孫にと買ってきた軽Bとかいう芋菓子の袋、それに唐辛子の入った果物ネットを並べ終えると、半腰になって膝を払った。
 息子が辛い物好きだということをよく知っている。母が帰ると、とりあえず自分は唐辛子を金網のざるに放り込んで物置の棚に乗せ、柏手を打った。母に感謝。が、結果的には、乾燥させるというよりも、そのまま放置するという格好になった。
 唐辛子なら、冷蔵庫にハチ食品製の粉末一味の三百グラム詰めが半分ほど残っている。せっかくもらった唐辛子だが、実のままだと乾燥させるのに時間がかかるだろうし、粉にまで擂るのも面倒だ。物置で萎びてゆく赤黒い面を目にするたびに、これはこれはとは思うのだが、ハチの一味が残っている間は、指も食指も動かなかったのだ。
 わが家の物置は家の北側に接していて、半透明の波板に包まれているおかげで、適度な日光を得られる。そうやって、秋から冬にかけてのふた月ばかりが過ぎた。
 いつまでもあると思うな親とハチ。
 一味唐辛子が底をついてから自分は動いた。己の判断である。やっと、ではない。いざやり出すと早いぞ俺は。
 台所の流しでへたを取り去り、鼻歌まじりに炬燵の上に運んだものは、あわれ三センチメートルまでに縮んだ鷹の爪のミイラ百体。
 へたを取るときに気づいたのだが、こいつら、チイチイと偉そうに種を抱えていやあがる。種があっては、フードプロセッサーで粉末にするときにも、食べるときにも障りがあるやも知れん。自分はただちに決意した。ご丁寧にも、一体一体、実をカッターナイフで裂き、種を取って進ぜようというのである。
 作業自体は、慣れればどうということはない。ひとつひとつつまんでは、カッターの刃で下からククッと尖がり帽子の天辺まで切り上げる。いやがる皮、というのか実、というのか、半プラスチックのような乾燥しきった赤いべべを強引に開き、内側に未練たらしくへばり付いている種とその周りのフケみたいなヘラヘラを親指の爪でこそぎ落とす。種といっても、ほほん、これが種とな、不貞腐れてぺしゃんこになっている胡麻粒じゃあないの、お前はもう、死・ん・で・い・る、とでも言いたくなるような情けない風情である。
 そうやって自分は炬燵に足を入れて、夕方の『今日の出来事』の類の番組を見ながら、せっせとこの世のごみを取り去っていった。機械的に。無表情で。ときにテレビに出ているコメンテーターに口ごたえしながら。集めた赤い皮を徹底的に粉末にすれば相当に辛いブツを得られるだろう。既製品とはまた違った辛さが──、と念じながら。
 作業を半分ほど終えたころに、小学六年の息子がそろばん塾から帰ってきた。戸外の空気を従えて居間に飛び込んでくる。そろばんの成績は順調のようだ。三年半ほど続けたところだが、次は二段に挑戦だという。だが帰るなり、やつはザックに入った道具一式を放り投げ、人が見ているテレビの入力を、なかば強引に切り替えてゲームを始めた。
 自分はふとした悪戯心でもって、「おい、ちょっと食べてみないか、辛いぞう」と、やや朱色がかった赤い実のひとかけらをつまんで笑いかけてみたのだけれども、ゼルダのなんたらに夢中の小学生の耳には入らない。
 ほっ、無垢なやつよ、ゲームみたいな人の拵えたつまらん設定より、現実の方がよほどおもしろいのに。そりゃまだ気づかないわなあ、子どもだもんな。しかし、いうなれば一粒の種子に過ぎなかったこやつがだ、ここまで成長してきたのだから大したもんだともいえるのだが。
 ──いまどのくらいの大きさになってるのかなあ。
 ──うーん、ま、これよりちょっと大きいくらい?
 妊娠何ヶ月目だったか。中華料理屋で皿に乗せられた餃子を箸で指しながら、胎児の肢体を見積もった。夫婦で交わしたそうした軽口も、遠い昔のようだ。
 進物用のサンふじのように粉がふいている薄赤いほっぺたと真剣な眼差し。その横顔を眺めながら、さてどんなものかと、自分は息子が無視した唐辛子の端っこをしがんでみた。
 途端に、五感のすべてが舌先に向けられた。辛い。異様に辛い。というか、舌の先が感電したような針で刺されたようなプレス機で挟まれたような、何か、化け学というよりも工学系のような、機械じみた辛さだ。
 と、くしゃみが立て続けに出た。鼻水がもぞもぞするので、ティッシュを箱から引いて何度も鼻をかむ。ついでにいつものように、細長く丸めたティッシュを鼻の穴にねじり込んで内側の粘膜を清拭した。
 あーあ爽快爽快、と思う間もなく、鼻の周りがひりひりしだした。もぞもぞだのひりひりだの、自分でも情けないが、こういう表現しか出てこない。ともかく痛い、鼻の穴および周辺が。何かが付いたようだ。かといって拭けば拭くほど痛みは増す。かといって拭かなくとも痛みは増す。鼻の穴の付近がとんでもない状況になりつつあることが、秒針の動きとともに、それこそ肌の上でわかる。
 胸の内にひと筋の冷たいものが走る。これは現実という代物を理解するときの、あの典型的なプロセス──そうなりつつあることを逐次理解するというよりも、なってしまったことに認識の方が徐々に追いついてくること──ではないのかしらと思えてきた。