猫は死んだしおっさんは行方不明
ふだん直立二足歩行をする人間にとっては、たとえ段差の上り下りであろうと、平地歩行の変化形に過ぎず、とくに下りるときに手のひらを付けることは、通常ない。
あるとき、室内飼いをしているロシアンブルー系の雑種猫がコックンコックンと調子よく階下に降りてゆくさまを、二階の手すりにもたれて見送っていた。四足のきゃつらにとっては、ふだんどおりのリズミカルな動きだ。
自分はどこかが緩み、別のどこかが締まり過ぎていたのだろう。よくある光景なのだが、このときふと、人間がこのように降りたらどういう按配なのだろう、部屋の中はどんなふうに見えるのだろうか、ひょっとすれば、体験することのみから生ずる発見があるのではないか、などと思い至ったのだった。折りしも家人は、朝刊の折込チラシを入れてきたスーパーに向けて二十分前に出立している。家の中で息をしているのは、自分と生意気な雑種のみである。
お金がかかることではないし、誰に見られるわけでなし。さっそく自分は実行にとりかかった。その場から曲がり階段を三段降りたところで腰をおろし、ケタケタと笑っているような間抜けな十一段の踏み面を見下ろす。ここから両手を先に、両足を後にして、四つん這いで降りようという肚なのだ。玄関の上がり框で蟠り、何事かとこちらを見上げている猫の細面が憎らしい。よおし見とれよ、とばかりに、まずは両の手を三段ほど前方、つまりは下方に置こうとした。
ところがこれができない。腰を据えたままでは上半身がそこまで前屈せず、五十センチメートルほども残しているのだ。これ、届くという御仁がいるならお目にかかりたい。何をまごまごしとるのだ、そんなもん、えいやっと全身を投げ出したあとに両腕で踏ん張ればしまいじゃないかとうそぶく人がいるかもしれないが、ならばやってみろよ、それはやったことのない者の戯言である、と言いたい。もう転落間違いなし、猫に笑われるだけでは済まない、爾後日常の起居すらままならぬという予感が皮膚から沸き立つ。
で、逡巡した挙句に、ひとつ妥協をして標的を一段手前に引き上げてみた。まだあかん。届かん。さらに妥協してもう一段引き上げる。足元より一段低いだけである。ようやく両手が届いた。しかし突っ張る指先が開いている。これでは蛙である。猫にはほど遠い。真昼間から、玄関に下りる階の真ん中で蝦蟇の格好をして唸っているのは、どうにも体裁がよくない。
その恰好でしばらく考えるに、いや蛙は意外と賢い、俺は根本的に間違っていた、足先手後ではなく、まずしかるべき場所に手を置いてから、足のほうを上にずり上げればいいのではないかという閃きがあったのだ。手先足後、これである。まさに発想の転換。要は、あの猫の姿勢がターゲットであって、結果さえ得られればそこに至る過程は二の次である。と、何かの成功事例にも書いてあった。手と足の先後など問題ではない。
そこで自分は腰掛けた姿勢のまま、お尻を使ってドコドコと四段降りて膝をつき、ついでその一段下を両手でしっかりとつかんだ。このとき手の位置は、一階の床までに六段を残していた。この姿勢ですら苦しい。身動きが取れない。そも人生とは労苦の連続だ。しかし初志貫徹、自分はせっかく付けた両手を離さないようにと心がけながら体をわずかに右向きに捻り、いやがる下半身を宥めつつ、膝と足指の連携により、一段また一段と上に伸ばした。全身を以って、あの願ってもない猫型を実現したのである。
などと書くと、まるで煉瓦を一段また一段と積み上げていったような気楽さが漂うが、さにあらず。まったく正反対である。苦しいのはすったもんだの下半身ではなく、端から気張ってきた両腕両肩の方である。丸めていた下半身を上方に展開するにつれ、すなわち重心の真下の位置から足首が離れるにつれて、手首への加重の割り当てが増大し、まるで逆立ちのような不健全な力のかけ方を強いられるのである。手首がしびれる。両肩が痛い。咳が出る。いやさ、咳のような息を余儀なくされる。ふつうに呼吸をすれば崩れそうだ。
逆立ちなら、やっていて辛ければ、上げた足を元の位置に戻せば済む。ところが現状では、足を下ろす場所がないのである。というか、足を下ろすという概念がなくなっているのだ。現場は建築基準法に適う、正しく四十五度の斜度を持つ階段である。その段々の下側から順に、手のひら、脛、足指を支えにして、体重七十キロの中年男が伸びているのだ。つまり足はすでに下りているともいえるわけで、もはや猫のシルエットとはかけ離れているが、話はそれどころではない。もういちど言うが、足の戻し場所がないのだ。手首と肩の疲労が限界に近い。さてどんな風景が見える? あたりまえだが、俺の猫型はひとつも見えない。どだい人間というもの、日ごろは首なし人間である己の肢体は見慣れているはずだが、このたびは、首筋が硬直しているせいで、両の手だけしか視界に入らない。
何度でも言う。人生とは労苦の連続だ。そしてそれらの大半は自らの行いに起因する。原因究明も、まず隗より始めよ。で、どうしたかというと、しかしどうしようもない。まさか、そのままの剣幕でもって倒立前転などというわけにもいかないし。
しからば上げた足を、先ほどとは逆に一段一段縮めていけばよいのではあるまいかとの諸賢よりのご指摘、もっともである。しかし、それをやるといまより腰高の姿勢となり、かろうじて保っているこのバランスが崩れる恐れがある。而して疲弊した両腕にさらに負担をかけるやも知れず、やがて前のめりに崩落するのではないか。平地で転倒するならまだしも、自分はいま急斜面の中腹にたまさか引っかかって止まっている雪だるまにも似て、何かをきっかけにして、その位置エネルギーを費消し切るまで放埓な回転運動を展開するのではないかしらんという恐怖があって踏み切れないのである。もはや、ちくりとの動きも油断がならないのだ。何しろ手が、肩が。それから首の後ろ側も。
俺は何をしているのか。体中のDNAが怒っている。なんちゅう格好をしさらすのだ。われわれは猫向けの設計書なんかじゃない。家族が怒っている。なにやっとんの、あんた。それって何か意義があるの? できるできないを見極めたらどうなのよ。できないのならすぐにやめて。みんなが怒っている。親もきょうだいも、みんなみんな憤っている。
悪いことは重なるものである。くは。こんなときに限って呼び鈴を押す田分けがいるのだ。あれは佐川の餓鬼だ。物言いでわかる。ちゃー、さがーきゅーびんっせー、おとーけものっせー、って、おい。きっちり喋らんか。スマホにはちゃんとした日本語を打つんだろうが。履歴書の志望動機欄には、新しい物流形態を拓く御社の姿勢に感銘を受けました、なんて書いたんだろうが。なぜそれがしにはまともに喋れんのだ。
瞬間、なぜなのか自分でもわからない、その体勢のまま「あーい」と大声で返事をしてしまったのである。「あー」で始まった発語は、「い」で終わらせないことには収拾がつかない。肺臓から抜いた空気の分すら、きっちり体に堪える。
あるとき、室内飼いをしているロシアンブルー系の雑種猫がコックンコックンと調子よく階下に降りてゆくさまを、二階の手すりにもたれて見送っていた。四足のきゃつらにとっては、ふだんどおりのリズミカルな動きだ。
自分はどこかが緩み、別のどこかが締まり過ぎていたのだろう。よくある光景なのだが、このときふと、人間がこのように降りたらどういう按配なのだろう、部屋の中はどんなふうに見えるのだろうか、ひょっとすれば、体験することのみから生ずる発見があるのではないか、などと思い至ったのだった。折りしも家人は、朝刊の折込チラシを入れてきたスーパーに向けて二十分前に出立している。家の中で息をしているのは、自分と生意気な雑種のみである。
お金がかかることではないし、誰に見られるわけでなし。さっそく自分は実行にとりかかった。その場から曲がり階段を三段降りたところで腰をおろし、ケタケタと笑っているような間抜けな十一段の踏み面を見下ろす。ここから両手を先に、両足を後にして、四つん這いで降りようという肚なのだ。玄関の上がり框で蟠り、何事かとこちらを見上げている猫の細面が憎らしい。よおし見とれよ、とばかりに、まずは両の手を三段ほど前方、つまりは下方に置こうとした。
ところがこれができない。腰を据えたままでは上半身がそこまで前屈せず、五十センチメートルほども残しているのだ。これ、届くという御仁がいるならお目にかかりたい。何をまごまごしとるのだ、そんなもん、えいやっと全身を投げ出したあとに両腕で踏ん張ればしまいじゃないかとうそぶく人がいるかもしれないが、ならばやってみろよ、それはやったことのない者の戯言である、と言いたい。もう転落間違いなし、猫に笑われるだけでは済まない、爾後日常の起居すらままならぬという予感が皮膚から沸き立つ。
で、逡巡した挙句に、ひとつ妥協をして標的を一段手前に引き上げてみた。まだあかん。届かん。さらに妥協してもう一段引き上げる。足元より一段低いだけである。ようやく両手が届いた。しかし突っ張る指先が開いている。これでは蛙である。猫にはほど遠い。真昼間から、玄関に下りる階の真ん中で蝦蟇の格好をして唸っているのは、どうにも体裁がよくない。
その恰好でしばらく考えるに、いや蛙は意外と賢い、俺は根本的に間違っていた、足先手後ではなく、まずしかるべき場所に手を置いてから、足のほうを上にずり上げればいいのではないかという閃きがあったのだ。手先足後、これである。まさに発想の転換。要は、あの猫の姿勢がターゲットであって、結果さえ得られればそこに至る過程は二の次である。と、何かの成功事例にも書いてあった。手と足の先後など問題ではない。
そこで自分は腰掛けた姿勢のまま、お尻を使ってドコドコと四段降りて膝をつき、ついでその一段下を両手でしっかりとつかんだ。このとき手の位置は、一階の床までに六段を残していた。この姿勢ですら苦しい。身動きが取れない。そも人生とは労苦の連続だ。しかし初志貫徹、自分はせっかく付けた両手を離さないようにと心がけながら体をわずかに右向きに捻り、いやがる下半身を宥めつつ、膝と足指の連携により、一段また一段と上に伸ばした。全身を以って、あの願ってもない猫型を実現したのである。
などと書くと、まるで煉瓦を一段また一段と積み上げていったような気楽さが漂うが、さにあらず。まったく正反対である。苦しいのはすったもんだの下半身ではなく、端から気張ってきた両腕両肩の方である。丸めていた下半身を上方に展開するにつれ、すなわち重心の真下の位置から足首が離れるにつれて、手首への加重の割り当てが増大し、まるで逆立ちのような不健全な力のかけ方を強いられるのである。手首がしびれる。両肩が痛い。咳が出る。いやさ、咳のような息を余儀なくされる。ふつうに呼吸をすれば崩れそうだ。
逆立ちなら、やっていて辛ければ、上げた足を元の位置に戻せば済む。ところが現状では、足を下ろす場所がないのである。というか、足を下ろすという概念がなくなっているのだ。現場は建築基準法に適う、正しく四十五度の斜度を持つ階段である。その段々の下側から順に、手のひら、脛、足指を支えにして、体重七十キロの中年男が伸びているのだ。つまり足はすでに下りているともいえるわけで、もはや猫のシルエットとはかけ離れているが、話はそれどころではない。もういちど言うが、足の戻し場所がないのだ。手首と肩の疲労が限界に近い。さてどんな風景が見える? あたりまえだが、俺の猫型はひとつも見えない。どだい人間というもの、日ごろは首なし人間である己の肢体は見慣れているはずだが、このたびは、首筋が硬直しているせいで、両の手だけしか視界に入らない。
何度でも言う。人生とは労苦の連続だ。そしてそれらの大半は自らの行いに起因する。原因究明も、まず隗より始めよ。で、どうしたかというと、しかしどうしようもない。まさか、そのままの剣幕でもって倒立前転などというわけにもいかないし。
しからば上げた足を、先ほどとは逆に一段一段縮めていけばよいのではあるまいかとの諸賢よりのご指摘、もっともである。しかし、それをやるといまより腰高の姿勢となり、かろうじて保っているこのバランスが崩れる恐れがある。而して疲弊した両腕にさらに負担をかけるやも知れず、やがて前のめりに崩落するのではないか。平地で転倒するならまだしも、自分はいま急斜面の中腹にたまさか引っかかって止まっている雪だるまにも似て、何かをきっかけにして、その位置エネルギーを費消し切るまで放埓な回転運動を展開するのではないかしらんという恐怖があって踏み切れないのである。もはや、ちくりとの動きも油断がならないのだ。何しろ手が、肩が。それから首の後ろ側も。
俺は何をしているのか。体中のDNAが怒っている。なんちゅう格好をしさらすのだ。われわれは猫向けの設計書なんかじゃない。家族が怒っている。なにやっとんの、あんた。それって何か意義があるの? できるできないを見極めたらどうなのよ。できないのならすぐにやめて。みんなが怒っている。親もきょうだいも、みんなみんな憤っている。
悪いことは重なるものである。くは。こんなときに限って呼び鈴を押す田分けがいるのだ。あれは佐川の餓鬼だ。物言いでわかる。ちゃー、さがーきゅーびんっせー、おとーけものっせー、って、おい。きっちり喋らんか。スマホにはちゃんとした日本語を打つんだろうが。履歴書の志望動機欄には、新しい物流形態を拓く御社の姿勢に感銘を受けました、なんて書いたんだろうが。なぜそれがしにはまともに喋れんのだ。
瞬間、なぜなのか自分でもわからない、その体勢のまま「あーい」と大声で返事をしてしまったのである。「あー」で始まった発語は、「い」で終わらせないことには収拾がつかない。肺臓から抜いた空気の分すら、きっちり体に堪える。
作品名:猫は死んだしおっさんは行方不明 作家名:中川 京人