過ぎゆく日々
寄 付
先日、市民病院の立て替え費用に250億円を寄付した人がいたと聞いて驚いた。
今さらだが、お金というものはあるところにはあるものだ。
一般庶民は、一億円の宝くじ当選を夢見て、寒風の中、あるいは炎天下、長時間売り場に長い列を作る。また、一円でも安い物を求め、遠くの店まで自転車を走らせる。お金のために犯罪に手を染め、一生を台無しにする人までいる。
でも考えてみれば、一握りの富裕層の人も、それなりに大変かもしれない。それだけの財をなすためには多くの苦労があっただろうし、一方で運良くその境遇を手に入れた人は、勤労意欲をそがれ人生を棒に振る怖れもある。
そして、いつかこの世を去る時がまた大変だろう。あの世にお金は持っていけないのだから。
「子孫に美田を残さず」
と言われるように、あまりに多額な遺産は相続人のためにならないかもしれないし、もめ事の元にもなりそうだ。その上税金も多く取られ、それをどう使われるかわからない。無駄な箱物や、一部の人のいいように使われたのではたまったものではない。
その点、前述の人のように明らかに人々の役に立つための寄付は、とても素晴らしい選択だと思う。
庶民感覚で、お金として実感が伴うのはせいぜい1億。それ以上は10億も100億もさして変わらない。ただの数字だ。
それにしても、250億とは――
途方もない金額で、それを持っていて、なおかつ手放すというのは、やっぱり凄い、そう思ってしまう。
そして、人のためになるお金の使い方に心温まる思いがした。
2025.3.21