平安の月
そしてある日、またあの笛の音が流れてきた。笹はハッとして薬草摘みの手を止めたが、さらに幼子が増えた家族の姿が頭をよぎった。が、それでも笛の音に導かれるように、恐る恐るあの岩場へ向かった。
すると、そこには若者ただひとりの姿があった。正確にはもう若者という歳ではない一人前の男だったが。
笹は思い切って声をかけた。
「きれいな笛の音ですね」
「ありがとうございます」
やはり、男は笹のことを覚えていなかった……初めて言葉を交わした時から、もう十年以上たっているので致し方ないが、笹は悲しかった。
「この辺の方ではありませんよね? おひとりで旅に?」
「あちらこちらの見世物で、笛を吹いて回っています。家族も一緒だったのですが、半年ほど前に流行り病で亡くしました」
「えぇ!」
笹の驚き方に男の方が驚いた。
「いえ、あの、それはお気の毒なことで……」
笹は何をどう考えていいのかわからず、その場を後にした。長い年月を経て、ようやく男と堂々と出会う機会が訪れたのだった。でも、あまりに突然のことに動揺するばかりで、どうしていいかわからない。
その夜、笹は月の光の中、眠ることができなかった。自分はすっかり歳をとってしまった。でも、男をいとおしく想う気持ちは少しも変わらない。いったいどうやってこの想いを伝えたらいいのだろう? 家族を亡くしてまだ半年の男の心には、妻や子が生き続けているに違いないのだ。
若ければ待つ、いくらでも待つ。でも、もう自分が女でいられる時間は残り少ない。そうこう考えているうちに夜は明けた。
数日の間、笹は家に閉じこもり、考えに耽った。そして夜になると、縁側に出て月を眺めた。静寂と漆黒の闇の中、この世には、月と自分だけが存在しているように思われた。
気持ちが定まらぬまま、笹はあくる日、家を出た。岩場が近づくにつれ、言葉が見つからない笹の足取りは遅くなった。そして岩場を見渡せる丘に着いて見上げると、そこに男の姿はなかった。あれからまだ十日足らず、もう旅立ったとは思えない。
笹は慌てて見世物へ向かった。いつもの賑わいの中、男を探したが、どこにもその姿はない。そして、出番を終えた踊り手に聞いてみた。すると、笛吹きの男は病に臥せっているという。その場所を聞いて近くまで行くと、世話好きそうな近所の女が教えてくれた。その女から聞いた病の名で、笹は自分のなすべきことを悟った。
その昔、父から薬草の知恵を伝授された時、決して取りに行ってはいけない草の話を聞いた。万病に効くその薬草は危険な岩場に生えていて、誰も取ることはできないという。
男の病は、その薬草以外でもはや治ることはない。死を待つだけだ。あの禁断の薬草を取るしかない。でももし取れたとしても、そのまま落ちてしまっては、男の元へ薬草を届けることはできない。
笹の薬草をいつも求めている村人に、鳩を飼い慣らしている男がいた。笹はその男の元へ行き、鳩を一羽借りた。そして、鳩に大切な薬草をつけて放すから、それを笛吹きの男に飲ませるようにと頼んだ。長年、笹の薬草に世話になっていた鳩飼いの男は、快く引き受けてくれた。
笹は家に戻り、明日の準備に取りかかった。それが済むと、門のそばの楓の木の前に立ち、しばらくの間、鮮やかに紅葉した楓の葉をじっと見つめていた。愛娘へ、永遠の別れの言葉を託すかのように……
夜を迎えると、笹はいつもの縁側に座った。月はいつもと変わることなく、煌々とあたりを照らしている。
笹は、あの男のために自分が何かできることが、心からうれしかった。たとえ、それで命を失うことになってもなんら悔いはない。昔、父から伝授された薬草の知恵はこの時のためだったとさえ思えた。
《この身にて 君の命がつながれる ありがたきこと 別れの月光》
翌日、岩場のそばに笹は立っていた。初めて若者を見て以来十数年、通い続けたこの岩場の下に、その大切な人の命を救う草が生えている。何とも不思議な巡り合わせだった。
命綱を結ぶ木がないので、岩場から下りることはできない。わきから滑る岩肌を伝っていく以外にない。笹は一歩ずつ慎重に薬草を目指した。岩の小さなくぼみに手をかけては、足場を探して少しずつ移動を続けた。
そして、ようやく薬草までたどりつくことができたが、そこからが大変だった。岩につかまっているため、自由になるのは片手だけだ。笹は、口にくわえている袋に、慎重に薬草を詰めた。そして、胸に入れていた鳩を静かに取り出した。
お願いだからおとなしくしてね、と心で祈りながら、薬草の入った袋を鳩の足に結び付けようとした。しかし、岩場に捕まっている指は痺れだし、袋を結ぶもう片方の手も、震えてなかなかうまくいかない。額からは汗がつたい、気が遠くなりそうになりながら、笹は必死に作業を続けた。そして、どうにか鳩の足にしっかりと袋を結びつけると、最後の力を振り絞って、鳩を空に放った。するとその反動で、笹の体は宙に投げ出された。
落下していく笹の目に最後に映ったのは、若者が助かるはずの薬草を運ぶ鳩の飛び去る姿と、見えるはずのない美しい満月だった。
完