平安の月
そんなある日、薬草取りをしていると、はるか遠くから笛の音が聴こえる気がした。とうとう幻聴が聴こえるようになってしまったかと思ったが、もしかして! という思いに突き動かされ、笹はいつもの岩場に向かった。
笛の音はだんだん大きくなっていく。
(間違いない! あの人だ!!)
なぜだか涙が溢れ、前がよく見えないまま、小走りで山道を駆け上がった。もう薬草籠など放り出して走りたかった。息を切らして岩場が見える丘に着くと、そこにはあの若者――と寄り添う若い女がいた。ふたりのシルエットは美しく山肌に影を映している。
笹は慌てて木の陰に隠れ、そこに座り込んでしまった。体が動かない。無理をして走ってきたせいでないことはわかっていた。あまりのショックで息もできなくなるのではないかとさえ思った。
妻だろうか? それともいいなずけか……どちらにしても特別な間柄なのは明らかだった。
しばらくして、落ち着きを取り戻した笹は、薬草籠を背負い、笛の音に背を向けて、来た道を戻り始めた。その足取りは、魂を抜かれたもののように危うげだった。しかし、家に近づくと笹は背筋を伸ばし、凛とした母の姿に戻っていた。頬の涙ももう乾いていた。
そんな笹だったが、心の中は――自分も人の妻、若者にも添う女がいる。なのに若者を想う心は全く変わらない。いや、それどころか、前にもまして狂おしいほどに胸は焦がれた。
《寄り添いし 夢見た日々は今いずこ 月のかなたに 去りし君とて》
さらに五年の月日が流れ、楓の木は枝を四方に伸ばし、その姿は風格すら称えていた。
そして、楓と光は、もう一人前の娘に成長していた。笹は母親としての務めを果たし、佐兵衛へも世話になっただけの恩は返したと思った。そして、今や楓には立派な家と家族ができ、もう何も心配はいらない。
(これからは自分のために生きていきたい。今度あの若者が現れたら、旅に出よう)
たとえ夫婦連れであっても、離れた所からでも、若者の奏でる笛の音の中にいつも身を置いていたい、笹はそう強く思った。
そして、ついにその時が来た。またあの笛の音が聴こえてきたのだ。
笹は急いで家に戻り、佐兵衛と娘たちに置手紙を書くと、こっそりまとめてあった荷物を持って家を出た。前から決めていたことだったので何の迷いもない。これで恋しい若者の近くにいられる、そう思うだけで胸はときめいた。言葉は交わせなくても、笛の音が心に響くだけで想いは満たされる。
はやる心でいつもの岩場に行くと、そこにはやはり若者の姿があった。隣にはあの時の女が、そして、もうひとつ小さな影が――
笹は、その場でへたりこんでしまった。
なんと! ふたりの間には幼子がいた。予期せぬ光景に、笹はむせび泣きながら家へ戻り、置手紙を破り捨てた。父親になっていた若者を追いかけるわけにはいかない。自分が幼い子の母親である時に、それを捨てることができなかったように。