盗賊王の花嫁―女神の玉座4―
デヴェンドラも迷いつつも他に道もなく仕方なしに前へと進む。慎重に彼が扉に指先で触れると重たげな扉が音もなく開く。
そして前へ進む間もなく闇が流れ込んでくる。
(水……)
闇かと思ったものは大量の水だった。不思議と息はできるが声を出せない。足先に触れるものもない。視界は漆黒。
沈んでいるのか浮いているのか。
とにかく水の中であること以外に何もわからなかった。
漓瑞は手の甲に熱を感じて、何かを掴むように手を伸ばして掲げ浄化の水を解き放つ。
白い糸のように自身から放った水は闇の中を流れ漓瑞を導く。
引き寄せられる内に、闇の中に大きな白い塊が見えてきた。
(象?)
そこにいたのは巨大な白い象だった。見開かれた翡翠の瞳が漓瑞を捕らえる。
これは神だ。
目が合った瞬間、漓瑞はそう悟った。
***
黒羽は意識を失って起きる気配のないロフィットを置いていくわけにもいかず、目の前にある唯一の脱出口と思しき窓の前で立ち往生していた。
「ここにいてもしょうがねえんだけどなあ……」
ぼやいたところで動けない現状は変わらない。
自分より背丈のある男を抱えてはいけないし、一度ここを離れればもう一度帰ってくることはできないだろう。
「あ……」
どうするか考えあぐねている内にバタン、と扉が閉まる音とネハの唖然とした声が聞こえて黒羽は窓の方を振り向く。
窓は消えはしていないが、両開きの扉で固く閉ざされていた。
「あっか、ねえっか」
黒羽は思いきり力を込めて押したり引いたりしてみたものの、びくりとも動かなかった。
「ここを出ることはできないのなら、それでもかまいません。できることならば、夫の姿を見たかったのですが、世界が生まれ変わるのを待つだけでもかまわないのです」
ネハはうだるそうに頭を振ってその場に座り込む。こちらとしてはどうあっても脱出しなければ行けないのだがと、振り返った黒羽は彼女の顔色が思わしくないのに気付いて側に寄る。
「大丈夫ですか? ……やっぱり熱、高いっすね」
そっと肩に触れると布越しでも明らかに最初よりネハの体が熱くなっているのがわかって焦りを覚える。
体調の芳しくないネハも、いつまでもここにいては体がどうなるかわからない。
「あ」
ネハが何かに驚いたように目を見開いて右手で腹部に触れ、地面についたもう片手を握りしめる。
黒羽はその様子にしばし困惑し、そうしてやっと思い至っておそるおそる訊ねる。
「もしかして赤ん坊、いるんすか?」
顔を上げたネハも戸惑い気味に黒羽を見上げて、ゆるやかにうなずく。
「ええ。そうだわ。そうなのね。でも、まだ胎動なんて感じるはずが……」
そうつぶやくネハの言葉が不自然に止まる。
「我の新たな血肉」
そして、男とも女ともつかない嗄れた声が彼女の口をついて出た。
肌が粟立つ感覚に、黒羽は反射的にネハから体を退いてしまう。
この抗いがたい強い力を前にした本能的な畏怖は知っている。神を前にした時と同じだ。
「まさか、器はデヴェンドラじゃなくて赤ん坊のほうなのかよ」
考えたくはないがもはやその考えを否定する理由はなかった。
ふらりと立ち上がったネハの足下から、無数の蝶のように緑の濃い庭園の風景から色が飛び立っていく。
強い風を伴って変化は進み、後には真っ白い空間が広がるばかりだった。
目の前にいたはずのネハは、離れた場所にぽつんとある玉座にもたれかかり意識を失っている。ロフィットもそう遠くない所で倒れていた。
「くそ、なんだよ、ここ」
黒羽は玉座の元に進もうとするが、上手く手足が動かせない。体が強張っているというよりも、水の中にいる感覚に近い。
「ネハ!」
ゆっくりと動いていると、どこからともなくそんな声が聞こえてそちらに目を向けるとデヴェンドラがいた。
彼は途中までは普通に玉座に向けて走っていたが、玉座に近づくにつれてその動きが鈍くなる。
玉座を挟んでデヴェンドラと黒羽の視線が合う。
「ネハに一体何があったんだ」
「新しい神の器はあんたじゃなくて、腹の中の赤ん坊だ! こっから出るぞ!」
こんな所からは一刻も早く出なければと、叫ぶとデヴェンドラが息を呑んで妻を見る。
「そんな。だけれど、だからか……」
呆然としながらもそうつぶやいたデヴェンドラが苦しげに顔を歪める。
「なあ、このまま自分の子供、器にしちまうなんてつもりじゃねえだろうな」
彼の表情に嫌な予感がして、黒羽はまさかと訊ねる。
「……選ぶのは僕じゃない。主たる神がお決めになることだ。なぜ僕の肉体ではいけないんだ」
苛立ちと焦燥を含んだ声に、デヴェンドラ自身がどうこうできる問題ではないのだと黒羽は青ざめる。
「本当に、どうしようもないのか……?」
デヴェンドラの返答はなかった。
『未熟な器に血と魂を満たせ』
代わりに空間全体に嗄れた声が響き渡った。今度はネハの口からでなく、どこから聞こえて来たかもわからない。
『デヴェンドラ。剣に目の前の者の血と魂を屠らせ、我に捧げよ』
再び声が響いて体がふっと軽くなる。そして目の前から玉座が空中高くに浮かび上がった。
「主たる神のお言葉ならば、従うより他ない」
まだ状況についていけずに目を白黒させていた黒羽は、デヴェンドラが剣を抜いてぎょっとする。
「おい! 神様が何言おうが、自分の子供の体くれてやることはねえだろ!」
とにかく、まだ産まれもしていない赤子を容れ物扱いになどしていいはずがない。
「……神の器に選ばれた以上新たな魂を得て産まれることはできない。そのまま産まれずに消えてしまう。そうなったら、ネハの体もどうなるかわからない。僕は神の意志に従うだけだ」
苦悶の表情のままデヴェンドラが黒羽に切っ先を向ける。
「そのために、死んでくれ」
そう言われて素直にうなずけるわけもなく、デヴェンドラの選択になにひとつ納得いかなかった。
「あいにく、全部、お断りだ」
ここで死ぬのも、赤子を犠牲にするのもデヴェンドラが本心ではなかろう選択をしていることも全部嫌だ。
その思いを貫くためにはデヴェンドラに勝つしかないと、黒羽も冥炎を抜いた。
***
翡翠の双眼はまるでただの石ころのようだと、漓瑞は巨大な白い象を見つめて思う。
大きな力を感じ取れるというのに、瞳があまりにも空虚で白い象は石膏でできた作り物めいてすらいる。
魂はここにあるのだろうか。
デヴェンドラが新たな器となるというなら、この肉体はすでに魂の容れ物としての役割を果たしていないはずだ。
「こんなにも立派だというのに……」
しかし、新たな器を必要とするほどこの神の姿は綺麗なものだった。
「……それは魂が記憶から作り出したもの。実体ではない」
ふと耳慣れない声が闇の中のどこからか聞こえて、漓瑞は眉根を寄せる。聞いたことのある声である気はする。
そして声の主が誰であるか思い出すと同時に、背後に気配がして振り返る。
赤銅色の焼けた肌に黒に近い赤毛、それから金の瞳の大柄な男がそこに立っていた。両の手の甲に魔族の刻印を持つ男はムスタファ。冥炎と全くおなじ妖刀を持ち、砂巌で黒羽を瀕死まで追い込んだ神だ。
作品名:盗賊王の花嫁―女神の玉座4― 作家名: