白い木箱
「先代のマスターから、店のコンセプトを引き継ぐという特別条件で安くやらせてもらってるんです。ただ、そのコンセプトがちょっと変わっていまして」
「へえ」僕は興味をひかれて尋ねる。「どんなコンセプトなんです?」
「初めて来られたお客様は、お手持ちの品を何か一つ、この金庫の中にあるものと交換していただきたいんです」猫目の女はそう言うと、酒瓶がならぶバックバーの中央の棚に手をかけ、それをゆっくりと右にスライドさせる。棚の裏側には、冷蔵庫ほどもある古びた大きな金庫が据えられてあった。
「この店では40年前の開店当初から、初めて来店されたお客様が持ってこられた品を、この金庫を通じて交換し続けてきました」と、猫目の女は僕たちに言う。
「へえ、交換」ヒロはカウンターに前のめりになって金庫を眺める。「いまは金庫の中は何が入ってるんですか?」
「すみません、いま何が入っているのかはお伝えできません」猫目の女は申し訳なさそうに言う。「そして交換していただけないと、大変申し訳ありませんが次回以降の来店をお断りさせていただくことになります。それが先代が大切にしてきた、この店のコンセプトなんです」
「ははぁ。変わってますねぇ」僕はしげしげとその金庫を眺める。ダイヤル式の年代物のその鉄の塊は、大人の男が一人、余裕を持って入れるくらいの大きさがあった。
「正直、このコンセプトがあるおかげでお客様に不快な思いをさせてしまうこともあります。でもそれがこの店なんです、どうかご理解ください。」猫目の女はわずかに肩を落として言う。
「もし交換していただけましたら、次回来店時の割引券をお渡しさせていただきます。これは私の代から始めたサービスですが」
「お姉さんもえらい切実そうですね」ヒロは同情するように言う。
「せっかくやからなんか交換してみたいけどな」僕は自分のショルダーバッグを開けて中を確認する。
「あかんわ、ホテルの鍵くらいしかない。ヒロ、なんかないか?」
「そうやな」とヒロはつぶやき、少し考えてから「あるといえば、ある」とズボンのポケットからもそもそと何かを取り出す。僕は顔を近づけてヒロが取り出したものを見つめる。
それは、手のひらに収まるほどの大きさをした白い木箱だった。
「なんやそれ」僕はヒロに尋ねる。
「ちょっと前、お母さんの病室でおばあちゃんと寝てたら、急にお母さんが起きろ、起きろって俺に言ってきてさ」とヒロは語る。
「急に意識がはっきりした感じで、まっすぐこっちを見てきてさ。ベッドの隣にある引き出しを開けろって言ってきたん。俺も急に起こされて、眠くて、なんや酒でも隠してんのかいなと思いながら引き出しを開けたら、この箱が入ってたん。これどうしたん、って聞いたら、お母さん、それを俺にくれるって言ったんや。言い終わったらすぐ寝てしもて、それ以来聞いても何も答えてくれへん」ヒロはそこまで言うとジンフィズをすべて飲み干す。
「で、兄ちゃんに今日、これをどうしたらいいか相談しようと思ってたんや」
「中になに入ってるんや?」僕の問いに、ヒロは何も言わない。
「なんや、ろくでもないもん入ってたんか?」
「ううん。ただ、どうしたらいいかわからんもんやっただけ」しばし考え、何かを思いついたようにヒロは言う。「これをお母さんから受け取ってからずっとどうしようかって悩んでたんやけど。ここで交換するのがええんかもしれん」 「いや、中なに入ってんのか教えろよ」僕は木箱に手を伸ばす。けれどヒロはそれをポケットに隠してしまう。
「中身は秘密や」ヒロは椅子に座ったままうつむいて体を丸める。「兄ちゃんはここで交換するか、せんかだけ決めて」
そんなん決めれるかいな、と言いかけて、僕はふたりが小学生くらいの時のことを思い出す。ヒロが体を丸めてうつむく時は、僕がどれだけ脅かそうと、絶対に意志を変えないという決意表明だった。僕が根負けして諦めるまで、どれだけ殴られ続けられようと構わないという覚悟を示す時だ。十代の頃、怒りに任せてヒロに振るった暴力のことを僕は思い出す。
「お前がもらったもんやから」僕は諦めてヒロに言う。「交換したいならしたらええ」
「よろしいですか、一度お預かりした品はお返しすることができません」一連の会話を聞いていた猫目の女は心配そうに声をかける。
「いいんです、決めたんで」と僕は言い、ヒロを促す。「ほら、交換すんねやろ」 ヒロから箱を受け取ると、暗証番号を知られないようにするためか、猫目の女は身体で隠すようにしてダイヤルを回し、金庫の扉を開く。彼女が金庫の中から取り出したのは、ガンダムのプラモデルの箱だった。女はそれをヒロに手渡すと、代わりに白い箱を金庫の中に入れて扉を閉めた。
「うわ、シャアザクやん」とヒロは驚きの声を上げる。「すげえ、これもらえんの。ラッキー」
「なんやお前、まだプラモ好きなんか」僕はあきれて言う。
「シャアザク嫌いな男はおらんやろ」ヒロはプラモデルの箱を嬉しそうに見つめる。
「最高の成人祝いや、ありがとう」とヒロは目をキラキラさせて僕に言う。
僕たちが幼かった頃に、こんなふうにヒロが笑ったことがあったなと僕は思う。けれど、僕はその時の記憶についてそれ以上、思い出すことができない。
「お前が嬉しいんなら、俺も嬉しい」それだけ言うと僕はグラスに残った酒をすべて飲み干す。
ヒロを駅の改札まで見送った後で、酔いすぎた僕はホテルに戻る気になれず自動販売機で水を買って近くのベンチに座りこんだ。両方のこめかみが激しく脈打つをの感じる。僕は目を閉じて何度も深呼吸をする。
しばらくして僕は眠り、夢を見る。
夢の中で僕は、きわどい衣装を着て舞台の上でポールダンスを踊っている猫目の女を観客席から見ていた。他の観客たちはみな薬で眠らされた牛たちで、そのダンスを見ているのは僕だけだ。色とりどりのきらびやかなライトが踊る女を照らしていたが、音楽は鳴っておらず劇場内はとても静かだった。
猫目の女は長い足をポールに絡め、指を僕の方に伸ばしてみせる。すると、彼女は両脚を器用に使ってポールをどんどんと登ってき、一番高いところまで上がったかと思うと、上半身を大きくのけぞらた状態で、まるで舞い落ちる花弁のようにくるくると回転しながらポールを滑り降りた。
僕はその見事なダンスを、ヒロにも見せてやりたいと思う。ヒロが近くにいるはずだと思い、僕は劇場内を見渡す。観客席を囲む壁は、白く塗られた木でできていた。
ここはあの白い木箱の中だと僕は気づく。
ひどく恐ろしくなって、僕は叫ぶ。
ベンチの上で僕は目覚める。目覚めたと同時に、僕はヒロに成人祝いのウイスキーを渡しそびれていることに気づく。
きっとヒロはあの酒をもらっても喜ばなかっただろうと僕は思う。その思いは刺すような寂しさに変わって、僕はとても惨めな気持ちになる。
その時、携帯の着信音が響く。画面を確認すると彼女からだった。きっと先に部屋に戻って、ウイスキーがまだあることに気づいたんだろうと僕は思う。
彼女に何と言えばいいのかわからなくて、僕はベンチに座ったまま泣くことしかできなかった。