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白い木箱

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八月なのに涼しい風の吹く夜だった。弟との待ち合わせ場所である天王寺駅は、週末を楽しもうとする人たちでごった返している。
 携帯に着信があり、画面を見ると彼女からだった。電話に出ると、忘れものしてるよ、と彼女は言った。
「せっかくのお祝いなのに」と彼女はあきれたように言う。「今からそこまで、持って行こうか?」
「あとで弟とホテルの部屋に寄るよ。そっちは仕事の準備もあるだろうし」と僕は彼女の申し出を断る。
「私も一緒に行ければよかったんだけど」と彼女は残念そうに言う。これから僕が弟と食事をする頃には、彼女はどこかの大学で若い学者たちに新型の家畜用麻酔についてプレゼンしなくてはならない。
「今回はタイミングが悪かったから。仕方ないよ」と僕は言う。僕の長期休暇と彼女の出張の時期が重なっていたため、僕たちは二日前から大阪のリゾートホテルに宿泊していた。せっかくなので大阪で暮らす僕の弟と3人で食事でもと思ったのだが、どうしても弟と彼女の予定が合わなかった。
「また近いうちに機会があるよ」と僕は言う。彼女はそれについて何も言わないので、僕は黙って彼女の言葉を待つ。
「なんだっけ、この変なウイスキー」と、ふいに彼女が尋ねる。僕がホテルの部屋に忘れてきた品のことを言っているのだろう。
「アズ・ウィー・ゲット・イット」と僕は答える。「蒸留所が非公開の、樽から出してすぐ瓶詰めされた、変じゃなくて通なウイスキー」
「ふーん」と、彼女はあまり興味なさそうに応える。「弟さんが気にいるといいけどね」
 仕事が終わったらホテルに戻るからと彼女は言い、わかったと応えて僕は電話を切る。約束の時間を数分すぎたところで、改札の向こうで巨漢の男が手を振っているのに僕は気づく。よれよれのワイシャツに窮屈そうな黒のチノパンをはいて、ガニ股で歩く丸刈りの男。
 間違いない。弟のヒロだ。
「暑い」と、改札を出てきたヒロは言う。「ワイシャツ着てこいって言うから着てきたけど、暑い」
「お前それ、なんやねん」僕はヒロが持っている2リットルのアクエリアスのペットボトルを指差す。「これからメシ食うのになんでジュース飲んでるねん」
「のど乾いたからしょうがないやん」ヒロは額から流れる汗を、小学校の時から使っているけろけろけろっぴのハンドタオルで拭きながら言う。
「2リットルペットを携帯するなよ」僕はヒロから漂ってくるアクエリアスと汗が混ざり合った甘ったるい、すえた匂いを嗅ぎとる。ヒロのシャツは夕立に降られたのか、というくらい汗で湿っている。
「まだ予約まで時間あるし、一回俺のホテル行ってシャワー浴びよ。タクシー捕まえてくるわ」と僕は言う。このままでは他のお客さんの迷惑になってしまう。

 僕と彼女が泊まっているホテルに着くと、高そうなとこやなあとヒロは声をあげた。
「こんなええホテル、気後れするわ」そう言いながらシャワーを浴びたヒロは特に遠慮もせずパンツ一枚でソファーに寝転がる。
「彼女の出張で宿泊補助が出てるから、俺がちょっと費用を足していいホテルにしたんや。いつもこんなとこに泊まるわけじゃないで」
「俺みたいなんには無縁の場所や、ほんま」ヒロは言いながらペットボトルに残っていたアクエリアスを全て飲み干す。
「お前も大学出て働くようになったら好きなだけ泊まれるよ。今年はどっか受かりそうなんやろ」僕はヒロのシャツを洗面所で軽くすすぐと、バスタオルで水分を吸い取る。
「うん、まぁいちおう模試の判定は悪くなかった。国立狙えそうや」ヒロはベッドシーツほどもあるチノパンを床に広げると、いそいそとホテル備え付けの消臭剤を振り掛ける。
「一浪目は勉強どころじゃなかったやろし、今年はうまくいくとええな」僕はシャツをドライヤーで乾かす。「お母さんはどうや、最近は会ってんのか?」
「おばあちゃんと一緒に毎週、会いに行ってるよ」チノパンにしつこいくらい消臭剤を吹き掛けながらヒロが言う。
「京都まで毎週、行ってんのか?」僕はヒロの返答に驚く。「金も時間もバカにならんやろ」
「電車の中で英単語覚えたりとか、移動中は逆に集中できるから、ええねん」
「ほんまかいな」と言って僕はヒロの丸くて大きな背中を見つめる。
 母は2年前まで新大阪の店で、ニューハーフたちに囲まれてポールダンスショーのダンサーをしていた。客にすすめられてしこたま酒を飲んだ直後にダンスを披露しようとして失敗し、頭と頚椎に重傷を負った。首の骨は治ったが脳に機能障害が残ってしまい、祖母と高校を卒業したばかりのヒロとで半年ほど在宅介護を続けていたが、あまりに母の汚言や暴力が酷く、いまは京都の山奥にある福祉施設に預けられている。
「どうなん、お母さん調子は?」
「まぁ、あかんけど、あかんまま安定はしてる。しょっちゅう酒持って来てくれってLINEがくるけど、お菓子しか持って行かへんねん」そう言ってヒロは笑う。
「そうか」僕はシャツの襟をめくってドライヤーの熱風を浴びせる。あんな女いちいち相手すんなよ、という言葉が喉まで出かかる。
 母は17歳で高校の同級生との間に僕をつくって、28歳の時に別の男との間にヒロをつくった。僕たちを祖母に預けてほとんど家に帰って来ずに遊び歩き、僕が中学生の頃はその時の彼氏と海外に行ったきり三年間も音信不通だった。僕は高校を卒業してすぐ家を出てから、一度も母には会っていない。
「また踊りたいけど無理かなぁって、そんな話してた。仲間と踊りたいって」とヒロが言う。
「ふーん」と僕は適当に返事を返す。実家にいた頃に母が連れて来たニューハーフたちが言うには、母のダンスは重力を感じさせない軽やかさと優雅さが特徴で、評判を聞きつけて県外からも客が来るほどらしかった。だが、母は演技に集中できなくて危険だからと僕たちにダンスを見せてくれなかった。僕は幼い頃から子豚のように丸々と太った母がどんなダンスをするのか不思議に思っていた。しかし、もう母のダンスを見ることは一生できないのかもしれない、と僕は思う。
「もう予約の時間やわ」僕は話を打ち切って、ヒロに七割がた乾いたシャツを投げて渡す。「そろそろこれ着て、行くで」

 予定より15分遅れてたどり着いたフレンチレストランのテーブルで、僕はスパークリングワインを二杯注文する。
「飲み慣れてないやろうけど、一杯くらいは付き合えよ」
 ヒロは口をぽかんと開けたまま、ホールの高い天井に吊るされたシャンデリアを見上げる。「あれ落ちてけえへんかな」
「落ちてきたら全部タダにしろてクレーム入れるわ」そう言って僕はヒロにテーブル上のナプキンを手渡す。「ほら、これを広げて膝に置けや」
 前菜、スープ、魚料理と順に料理が運ばれ、メインディッシュの和牛のフィレ肉が来た頃には、僕たちは四杯目のワインを注文していた。
「お前、けっこう呑めるんやな。ボトルで頼んだらよかったわ」僕は酔いを悟られないように表情をつくって言う。
「この前、市役所祭りでアルコール耐性検査ってのがあって」ヒロはシャツの腕をまくって手首を指差す。「この辺にパッチを貼る検査なんやけど、俺ってかなりアルコールに強い体質なんやって」
作品名:白い木箱 作家名:追試