赤いソファと木曜日
赤いソファと木曜日
「あ、今日木曜日じゃん。」
理沙はソファにもたれながら呟く。
外からの風が網戸の網目に当たってところてんのように細長くなって理沙の髪を揺らす。
部屋にいる時はもっぱらバイト代をためて買った真っ赤なソファが理沙の定位置だった。
四月、大学に入り一人暮らしを始めると周りの友達はこぞってバイトを始めた。その理由は大概、『ブランドのバッグが欲しい』だとか、『遊ぶお金が欲しい』と決まっていた。
ただ、理沙がバイトを始めたのは特にお金が欲しいわけでも、ブランドに興味があったわけでもなかった。仲の良い、いや正しくは、これから仲良くしたいと思っていた友達、加蓮に誘われたからだった。
塾講師、自給1100円。
東北の田舎町からこの市に引っ越してきた理沙にとっては大金だった。しかも塾に来るのは大抵頭の弱い金持ちの子供だから問題児もいなく、答えを見ながら教えるのは楽だった。
加蓮はバイト代が貯まるとすぐ理沙を連れて二駅離れたショッピングモールに行き、新しい化粧品や流行りのスカート、それこそブランドバッグを買い漁った。
一方の理沙はというと特に欲しいものもなく、必要最低限のものを買えば満足だった。
「アンタ、平成の宮沢賢治ね。」
加蓮が呆れて理沙に言ったのを思い出す。
「どういう意味よ。」
「雨にも負けずよ、雨ニモマケズ。」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
慾ハナク、欲は無く。
「欲ぐらいあるわよ。」
つい理沙はその時ムッとして言い返した。まるでロボットのように、何事にも興味が無いように思われるのは嫌だった。
それに、『欲は無く』が、『良くはなく』に聞こえるのも気に食わない。
「じゃあ、今一番何が欲しいの。」
「え、今?」
理沙は周りを見渡した。しかしあるのはちっとも興味のないブランド店や、化粧品売り場ばかりだった。
理沙は仕方なく上のフロアに目をやる。
「あ!あれよ。私、あれが欲しい。」
「ん、どれどれ・・・」
理沙の指先にあったのは真っ赤なハイバックソファだった。
寝るのが嫌いな人間がいるだろうか。遠くから見てもフカフカなソファを理沙は本当に欲しくなった。
その日、理沙の三か月分のバイト代はソファ代となり、消えた。
「え、アンタ今なんか言った?」
理沙のベッドで寝ていたはずの加蓮が起き上がりながら言った。
「あ、今日は木曜日だって。」
「木曜日がどうしたのよ。」
「ゴミの日だった。」
「ありゃ。残念。」
ちっとも残念そうには聞こえなかった。
「それよりさ、理沙、」
「何。また壮介先輩の話?」
「どうして分かったの?」加蓮がベッドから飛び上がりながら言った。
「だって、加蓮が改まって何かを言う時は大体、壮介先輩か化粧品のことでしょ。」
「そんなに私壮介先輩壮介先輩言ってるかな。」
「どうせまた昨日の飲み会で壮介先輩カッコよかったーとか言い出すんでしょう。」
「いいじゃない。本当のことなんだから。」
昨夜、理沙と加蓮は所属している天文学サークルの飲み会に参加した。
「先輩、彼女いるのかしら。」
「聞いてみればいいじゃない。」
「アンタね、」ハアーと加蓮が息を吐く。
「そんなの、『好きです。』って言ってるようなもんじゃない。」
「でも、好きなんでしょう。」
「そりゃあ、まあ、ね。」
「だったら、」
「あ」
「何よ、急に。」
口が半開きになっている加蓮を理沙は少し呆れて見つめた。
「思い出した。」
何をよ、と尚も理沙は呆れて加蓮を見る。
「壮介先輩、どうやらストーカー疑惑がかけられているのよ。」
「すとーかー?」
今度は理沙の口が半開きになった。
「そうなんだよ。」
大学、天文学サークルの部室で壮介は嘆いた。
飲み会とあればそこそこ人数は集まるものの、普段の活動ではチラホラとしか部員はそろわない。八畳ほどの部室には四人しかいなかった。
「まだ悩んでたのか、お前。」
壮介と同学年の佐藤が言った。
「佐藤先輩にも相談したんですか?」
「ああ。こいつ意外に頭の回転早いから。」
「だけどコイツ、それしか言わないんだぜ。」
「それって何ですか。」
「だから、『ストーカー疑惑がかけられてる』としか、だよ。それ以外何も話さない。」
「それは、まあ、色々あるんだよ。」
壮介の顔が曇る。
「でも、事情が分からないと私達も手伝えませんよ。」
ねえ、と三人は顔を見合わす。
「この際言ってみろよ。」
「そうですよ。この際。」
うーんと唸った後壮介は口を開けた。
「あの、なんというか、さ、元カノ、なんだよ。」
「えっ。」
佐藤よりも、理沙よりも加蓮が最も早く反応した。
「じゃあ、つまりは何か、お前は元交際相手にストーカー疑惑をかけられているということか。」
数秒遅れで、佐藤が言った。
「情けない話だろ?」
壮介が肩を落とす。
「ドラマみたいな話ですね。」
「本当にドラマだといいんだけどな。」
「元交際相手となると、なかなか話が複雑になりそうだな。」
うーん、と佐藤は頭の後ろを掻きむしる。
「それで、」
と理沙は言いかけて、やめた。その代わり、
「加蓮。」
加蓮の顔は絶望したような、それでいて驚いたような、大金が入った財布を無くしたら私もこういう顔になるかもしれないと理沙は思った。
「加蓮さん、どうかした。」
その様子に気づいたのか、佐藤が言った。
「いえ、何でもないです。」
その言葉には真逆の意味と、『あなたじゃない』という意味の二つがブレンドされていた。
「話は戻るけど・・・どうすればいいんだろう。」
それには一切口をつけずに壮介が言い放った。冷たい顔をしていた。
「どうするもなにもな。」
「そうですね、まずは、」
「まずはもっと詳しい話を聞かせてください。私たちがどうにかします。」
いつの間に復活したのか、加蓮が言い放った。
「・・・ありがとう。」
壮介は加蓮の目をしっかり見つめて言った。
私『たち』。
どうやらしばらく忙しくなりそうだ。早くあの部屋に帰って、コーヒーでもゆっくり飲みたいと理沙は思った。もちろんあの赤いソファに座って、だ。
「それにしても、不思議よね。」
大講義室を出ながら加蓮が言った。次は田島の講義だから二階に行かなければならない。
「何がよ。」
「何がって、その、壮介さんの、」
「優佳さんと壮介さんが偶然にしては遭遇しすぎてるってこと?」
どうやら加蓮にとって優佳、つまりは壮介の元交際相手は口にも出したくない人物らしい。
加蓮は少し顔を赤くして頷いた。
壮介の話によると、その優佳とは同級生で、一年生の時に交際していた。しかし、
「何が、『私たち、合わないね』、よ。」
加蓮の足取りが荒くなった。
あっけなく、早々と二人の交際は終わり、その後は何事もないようだった。
しかし最近、講義室で、街中で、大学の廊下でよく会うらしい。しかも、
「苦虫を噛み潰した様な顔って何よ。ひど過ぎるでしょ。」
その度に壮介も気分が悪くなり、苦虫を噛み潰すのだ。
そしてついに先週、壮介が優佳をストーカーしているのではないかという噂がどこからともなく流れた。そして厄介なのは
「別れる時に壮介先輩がヨリを戻そうと迫ったってところね。」
「あ、今日木曜日じゃん。」
理沙はソファにもたれながら呟く。
外からの風が網戸の網目に当たってところてんのように細長くなって理沙の髪を揺らす。
部屋にいる時はもっぱらバイト代をためて買った真っ赤なソファが理沙の定位置だった。
四月、大学に入り一人暮らしを始めると周りの友達はこぞってバイトを始めた。その理由は大概、『ブランドのバッグが欲しい』だとか、『遊ぶお金が欲しい』と決まっていた。
ただ、理沙がバイトを始めたのは特にお金が欲しいわけでも、ブランドに興味があったわけでもなかった。仲の良い、いや正しくは、これから仲良くしたいと思っていた友達、加蓮に誘われたからだった。
塾講師、自給1100円。
東北の田舎町からこの市に引っ越してきた理沙にとっては大金だった。しかも塾に来るのは大抵頭の弱い金持ちの子供だから問題児もいなく、答えを見ながら教えるのは楽だった。
加蓮はバイト代が貯まるとすぐ理沙を連れて二駅離れたショッピングモールに行き、新しい化粧品や流行りのスカート、それこそブランドバッグを買い漁った。
一方の理沙はというと特に欲しいものもなく、必要最低限のものを買えば満足だった。
「アンタ、平成の宮沢賢治ね。」
加蓮が呆れて理沙に言ったのを思い出す。
「どういう意味よ。」
「雨にも負けずよ、雨ニモマケズ。」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
慾ハナク、欲は無く。
「欲ぐらいあるわよ。」
つい理沙はその時ムッとして言い返した。まるでロボットのように、何事にも興味が無いように思われるのは嫌だった。
それに、『欲は無く』が、『良くはなく』に聞こえるのも気に食わない。
「じゃあ、今一番何が欲しいの。」
「え、今?」
理沙は周りを見渡した。しかしあるのはちっとも興味のないブランド店や、化粧品売り場ばかりだった。
理沙は仕方なく上のフロアに目をやる。
「あ!あれよ。私、あれが欲しい。」
「ん、どれどれ・・・」
理沙の指先にあったのは真っ赤なハイバックソファだった。
寝るのが嫌いな人間がいるだろうか。遠くから見てもフカフカなソファを理沙は本当に欲しくなった。
その日、理沙の三か月分のバイト代はソファ代となり、消えた。
「え、アンタ今なんか言った?」
理沙のベッドで寝ていたはずの加蓮が起き上がりながら言った。
「あ、今日は木曜日だって。」
「木曜日がどうしたのよ。」
「ゴミの日だった。」
「ありゃ。残念。」
ちっとも残念そうには聞こえなかった。
「それよりさ、理沙、」
「何。また壮介先輩の話?」
「どうして分かったの?」加蓮がベッドから飛び上がりながら言った。
「だって、加蓮が改まって何かを言う時は大体、壮介先輩か化粧品のことでしょ。」
「そんなに私壮介先輩壮介先輩言ってるかな。」
「どうせまた昨日の飲み会で壮介先輩カッコよかったーとか言い出すんでしょう。」
「いいじゃない。本当のことなんだから。」
昨夜、理沙と加蓮は所属している天文学サークルの飲み会に参加した。
「先輩、彼女いるのかしら。」
「聞いてみればいいじゃない。」
「アンタね、」ハアーと加蓮が息を吐く。
「そんなの、『好きです。』って言ってるようなもんじゃない。」
「でも、好きなんでしょう。」
「そりゃあ、まあ、ね。」
「だったら、」
「あ」
「何よ、急に。」
口が半開きになっている加蓮を理沙は少し呆れて見つめた。
「思い出した。」
何をよ、と尚も理沙は呆れて加蓮を見る。
「壮介先輩、どうやらストーカー疑惑がかけられているのよ。」
「すとーかー?」
今度は理沙の口が半開きになった。
「そうなんだよ。」
大学、天文学サークルの部室で壮介は嘆いた。
飲み会とあればそこそこ人数は集まるものの、普段の活動ではチラホラとしか部員はそろわない。八畳ほどの部室には四人しかいなかった。
「まだ悩んでたのか、お前。」
壮介と同学年の佐藤が言った。
「佐藤先輩にも相談したんですか?」
「ああ。こいつ意外に頭の回転早いから。」
「だけどコイツ、それしか言わないんだぜ。」
「それって何ですか。」
「だから、『ストーカー疑惑がかけられてる』としか、だよ。それ以外何も話さない。」
「それは、まあ、色々あるんだよ。」
壮介の顔が曇る。
「でも、事情が分からないと私達も手伝えませんよ。」
ねえ、と三人は顔を見合わす。
「この際言ってみろよ。」
「そうですよ。この際。」
うーんと唸った後壮介は口を開けた。
「あの、なんというか、さ、元カノ、なんだよ。」
「えっ。」
佐藤よりも、理沙よりも加蓮が最も早く反応した。
「じゃあ、つまりは何か、お前は元交際相手にストーカー疑惑をかけられているということか。」
数秒遅れで、佐藤が言った。
「情けない話だろ?」
壮介が肩を落とす。
「ドラマみたいな話ですね。」
「本当にドラマだといいんだけどな。」
「元交際相手となると、なかなか話が複雑になりそうだな。」
うーん、と佐藤は頭の後ろを掻きむしる。
「それで、」
と理沙は言いかけて、やめた。その代わり、
「加蓮。」
加蓮の顔は絶望したような、それでいて驚いたような、大金が入った財布を無くしたら私もこういう顔になるかもしれないと理沙は思った。
「加蓮さん、どうかした。」
その様子に気づいたのか、佐藤が言った。
「いえ、何でもないです。」
その言葉には真逆の意味と、『あなたじゃない』という意味の二つがブレンドされていた。
「話は戻るけど・・・どうすればいいんだろう。」
それには一切口をつけずに壮介が言い放った。冷たい顔をしていた。
「どうするもなにもな。」
「そうですね、まずは、」
「まずはもっと詳しい話を聞かせてください。私たちがどうにかします。」
いつの間に復活したのか、加蓮が言い放った。
「・・・ありがとう。」
壮介は加蓮の目をしっかり見つめて言った。
私『たち』。
どうやらしばらく忙しくなりそうだ。早くあの部屋に帰って、コーヒーでもゆっくり飲みたいと理沙は思った。もちろんあの赤いソファに座って、だ。
「それにしても、不思議よね。」
大講義室を出ながら加蓮が言った。次は田島の講義だから二階に行かなければならない。
「何がよ。」
「何がって、その、壮介さんの、」
「優佳さんと壮介さんが偶然にしては遭遇しすぎてるってこと?」
どうやら加蓮にとって優佳、つまりは壮介の元交際相手は口にも出したくない人物らしい。
加蓮は少し顔を赤くして頷いた。
壮介の話によると、その優佳とは同級生で、一年生の時に交際していた。しかし、
「何が、『私たち、合わないね』、よ。」
加蓮の足取りが荒くなった。
あっけなく、早々と二人の交際は終わり、その後は何事もないようだった。
しかし最近、講義室で、街中で、大学の廊下でよく会うらしい。しかも、
「苦虫を噛み潰した様な顔って何よ。ひど過ぎるでしょ。」
その度に壮介も気分が悪くなり、苦虫を噛み潰すのだ。
そしてついに先週、壮介が優佳をストーカーしているのではないかという噂がどこからともなく流れた。そして厄介なのは
「別れる時に壮介先輩がヨリを戻そうと迫ったってところね。」