藁人形は微笑わない
藁人形は微笑(わら)わない
八年前、そこに置かれていたセーラー服。
何故か全開になっていた部屋の奥の窓。
その傍には、腐りかけた藁人形。
一緒に、ダイイングメッセージを添えて。
――八年前のその日を最後にして、君は僕の前から消え失せた。
1
京都市内に学び舎を持つ帝都大学の三回生である九条賢市は、今朝も下宿先のアパートから程近い京阪電鉄丹波橋駅にいた。丹波橋駅は京阪特急が停車するのに加え、近鉄電車との乗換駅としても重宝されていた。また、この駅周辺には京都市内のみならず、奈良・大阪方面へ向かう学生達が寝床を置く下宿が多く存在していた。
既に定期券と化したピタパを改札の読み取り部に触れさせ、七時四二分発のいつもの特急電車を待つ為に、京都寄りから二つ目の長椅子の端に腰を下ろした。そこで、自分のスマートフォンの画面に目を通し、ある程度の情報を仕入れるのは彼の日課だった。
「日経平均株価が大きく下落。昨日の終値は――」
実際に株式取引をしている訳ではないが、彼は日頃から「株を観れば、世界が分かる」などと言い散らしているおり、今日も一番初めに株関連情報を確認していた。
「……お早うございます! 賢さん」
陽気に挨拶しながら九条の左肩を後ろから押したのは、彼の二つ下の学年――つまり、一回生の熊取いずみだった。九条と同じ古典芸能研究会に所属している。因みに、朝の丹波橋駅で何らかの形で二人が会う事も、彼らにとっては一つの日課の様なものだった。
「またお前か……熊取」
いつもの様に、乗り気でない熊取が生返事を返す。なお、熊取が入学して以来の数か月、彼のその日課を邪魔する事も常套になりつつある。
「賢さん、今日も良い天気ですね」
「そうですねっ――ていうか、その変な呼び方やめてくれ。何回も話しただろ」
九条がそう告げ、「はいはい」と呆れた口調で熊取が答えたその頃、京都方面へ向かうホームに特急出町柳行が現れていた。
「それそろ、行きますよ――賢さん」
「黙れ」
九条は今日も朝から軽快なツッコミを加え、熊取と共に特急列車に乗り込んだ。
特急列車は途中の三条駅までは京阪本線を、三条駅以北は本線と直通運行が行われている鴨東線を通り、終点となる出町柳駅へと辿り着いた。無論、二人が通う大学の最寄り駅は此処である。
出町柳駅の四番出口を出ると、京都東部を南北に流れる鴨川が見える。地下駅舎から地上に出た辺りの交差点で、熊取は目的地とは真逆側のその鴨川の方を見つめていた。
「何ですか、あれ」
熊取が指差したその先――鴨川の向こう岸には、何やら数台の警察車両が西へ走っていた。
「熊取、行くぞ――これは事件の匂いがする」
自信満々に九条が言い切ると、熊取は「またですね」と慣れた台詞を吐いた。昔から推理小説を大変好んでいる九条は、こういった類の事件が起こると、普段まともに話やしない熊取を連れ出してでも、現場に行きたくなるそうだ。この様に何度も現場に通い続けると、流石に難事件に遭遇する事もある。実際、九条は大学入学直後に、とある事件を解決した。彼は、その時に貰った感謝状を今でも下宿先の部屋で大切に保管している。
「出町柳駅にレンタサイクルがあるから、それを使おう」
「了解です、行きましょう」
熊取が快諾する。
「……ああ」
人だかりや車線の流れを考慮しつつ、九条と熊取の二人が到着した場所は二条城だった。
二条城は江戸時代に造営された城であり、かつては足利氏、織田氏、豊臣氏によるものがあったが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、六棟の二の丸御殿が国宝に、二二棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計一○一六面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。更には、一九九四年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の一部として登録されている。また、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
人々が多く見物していた、城内の東部にある二の丸庭園の傍に二人は自転車を停めた。「KEEP OUT」と書かれた、刑事ドラマ等ではお馴染みのテープの下を潜り、九条は知り合いの刑事の烏丸大介の元へ向かった。
「お久しぶりです。烏丸さん」
烏丸刑事が、九条と熊取が参加している帝都大学の古典芸能研究会のOBであるという緩い縁があった為、ミステリ的な要素に心を通わせていた二人は、快く捜査に加えさせてもらっていた。実際、烏丸も彼ら二人の洞察力・推理力・行動力にはある意味脱帽していた。
「久しぶり、お二人さん」
「……今日はどういう事件なんですか」
九条がそう問いかける間に、熊取は聞き込んだ情報を書き留める為の手帳を取り出す。さほど高くはない、ごく平均的なものだ。
「非常に不思議な事件だね。もしかすると、九条くんは似た様な事件を経験した事があるかもしれないね。じゃあ、説明しよう。私に付いてきなさい」
二人が「はい」と返事をすると、烏丸を先頭に二の丸庭園内を歩いた。西側の入口から程近い白書院・黒書院の前を通り抜けた先には大きな池があった。無論その傍に遺体は安置されていたのだが、その様子を観た九条が何とも言えない表情を見せていた。
「被害者は、山科美穂さん。近くの専門学校に通う二十一歳女性。今日の午前五時頃にジョギングをしていた、近所に在住の男性が、池に沈む遺体を発見したそうだ。死亡推定時刻は、池に遺体が沈められていた為、余り正確には出ないそうだ。一応、具体的な時間は出ているそうだが、今回は参考にしない方が良いだろう。犯人が犯行時間を操作する事も有り得るからな――ところで、先程から九条くんは遺体を見て何を考えているんだい。いつもなら興味津々に口を挟んでくるはずだが。妙に話さないから不思議に思って――」
「……ぼ、僕の知り合いです、山科さんは」
声が震えながらではあるが、九条が返す。
「何、どういった関係かい。場合によっては重要参考人として話を聞かなければ。友達か、恋人か……恋人か。それとも、恋人か」
烏丸がしつこく言い迫る。
「恋愛をするのは、あの日以来やめました。大切な人を失って、初めて現実を知りました。もう、あんな想いなんてしたくないので。因みに、彼女は中学の同級生でした」
「なるほど、済まないな」
「別に良いですよ……次に行きましょう」
「そう言えば、この藁人形は何ですか」
ペンを手帳にの側面に挟んだ熊取が、烏丸に問いかける。
「ああ、これかい。見てみるかい」
そう言って烏丸が差し出したのは、現場の様子を納めた数枚の写真だった。
「この藁人形は、遺体の近くの岩の上に乗っていたものだ。釘で刺された紙にはダイイングメッセージが書いてある」
『ストロードールは笑わない』
「新聞やスポーツ紙の記事の切り抜きで作られていますね。とても懐かしいです。こういう画を見るのは」
「やっぱり、烏丸くんは覚えていたか。あの事件の事」
「覚えていない訳が無いですよ。あれが僕の青春の終わりでもあり、探偵趣味の始まりでもあるんですから」
八年前、そこに置かれていたセーラー服。
何故か全開になっていた部屋の奥の窓。
その傍には、腐りかけた藁人形。
一緒に、ダイイングメッセージを添えて。
――八年前のその日を最後にして、君は僕の前から消え失せた。
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京都市内に学び舎を持つ帝都大学の三回生である九条賢市は、今朝も下宿先のアパートから程近い京阪電鉄丹波橋駅にいた。丹波橋駅は京阪特急が停車するのに加え、近鉄電車との乗換駅としても重宝されていた。また、この駅周辺には京都市内のみならず、奈良・大阪方面へ向かう学生達が寝床を置く下宿が多く存在していた。
既に定期券と化したピタパを改札の読み取り部に触れさせ、七時四二分発のいつもの特急電車を待つ為に、京都寄りから二つ目の長椅子の端に腰を下ろした。そこで、自分のスマートフォンの画面に目を通し、ある程度の情報を仕入れるのは彼の日課だった。
「日経平均株価が大きく下落。昨日の終値は――」
実際に株式取引をしている訳ではないが、彼は日頃から「株を観れば、世界が分かる」などと言い散らしているおり、今日も一番初めに株関連情報を確認していた。
「……お早うございます! 賢さん」
陽気に挨拶しながら九条の左肩を後ろから押したのは、彼の二つ下の学年――つまり、一回生の熊取いずみだった。九条と同じ古典芸能研究会に所属している。因みに、朝の丹波橋駅で何らかの形で二人が会う事も、彼らにとっては一つの日課の様なものだった。
「またお前か……熊取」
いつもの様に、乗り気でない熊取が生返事を返す。なお、熊取が入学して以来の数か月、彼のその日課を邪魔する事も常套になりつつある。
「賢さん、今日も良い天気ですね」
「そうですねっ――ていうか、その変な呼び方やめてくれ。何回も話しただろ」
九条がそう告げ、「はいはい」と呆れた口調で熊取が答えたその頃、京都方面へ向かうホームに特急出町柳行が現れていた。
「それそろ、行きますよ――賢さん」
「黙れ」
九条は今日も朝から軽快なツッコミを加え、熊取と共に特急列車に乗り込んだ。
特急列車は途中の三条駅までは京阪本線を、三条駅以北は本線と直通運行が行われている鴨東線を通り、終点となる出町柳駅へと辿り着いた。無論、二人が通う大学の最寄り駅は此処である。
出町柳駅の四番出口を出ると、京都東部を南北に流れる鴨川が見える。地下駅舎から地上に出た辺りの交差点で、熊取は目的地とは真逆側のその鴨川の方を見つめていた。
「何ですか、あれ」
熊取が指差したその先――鴨川の向こう岸には、何やら数台の警察車両が西へ走っていた。
「熊取、行くぞ――これは事件の匂いがする」
自信満々に九条が言い切ると、熊取は「またですね」と慣れた台詞を吐いた。昔から推理小説を大変好んでいる九条は、こういった類の事件が起こると、普段まともに話やしない熊取を連れ出してでも、現場に行きたくなるそうだ。この様に何度も現場に通い続けると、流石に難事件に遭遇する事もある。実際、九条は大学入学直後に、とある事件を解決した。彼は、その時に貰った感謝状を今でも下宿先の部屋で大切に保管している。
「出町柳駅にレンタサイクルがあるから、それを使おう」
「了解です、行きましょう」
熊取が快諾する。
「……ああ」
人だかりや車線の流れを考慮しつつ、九条と熊取の二人が到着した場所は二条城だった。
二条城は江戸時代に造営された城であり、かつては足利氏、織田氏、豊臣氏によるものがあったが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、六棟の二の丸御殿が国宝に、二二棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計一○一六面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。更には、一九九四年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の一部として登録されている。また、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
人々が多く見物していた、城内の東部にある二の丸庭園の傍に二人は自転車を停めた。「KEEP OUT」と書かれた、刑事ドラマ等ではお馴染みのテープの下を潜り、九条は知り合いの刑事の烏丸大介の元へ向かった。
「お久しぶりです。烏丸さん」
烏丸刑事が、九条と熊取が参加している帝都大学の古典芸能研究会のOBであるという緩い縁があった為、ミステリ的な要素に心を通わせていた二人は、快く捜査に加えさせてもらっていた。実際、烏丸も彼ら二人の洞察力・推理力・行動力にはある意味脱帽していた。
「久しぶり、お二人さん」
「……今日はどういう事件なんですか」
九条がそう問いかける間に、熊取は聞き込んだ情報を書き留める為の手帳を取り出す。さほど高くはない、ごく平均的なものだ。
「非常に不思議な事件だね。もしかすると、九条くんは似た様な事件を経験した事があるかもしれないね。じゃあ、説明しよう。私に付いてきなさい」
二人が「はい」と返事をすると、烏丸を先頭に二の丸庭園内を歩いた。西側の入口から程近い白書院・黒書院の前を通り抜けた先には大きな池があった。無論その傍に遺体は安置されていたのだが、その様子を観た九条が何とも言えない表情を見せていた。
「被害者は、山科美穂さん。近くの専門学校に通う二十一歳女性。今日の午前五時頃にジョギングをしていた、近所に在住の男性が、池に沈む遺体を発見したそうだ。死亡推定時刻は、池に遺体が沈められていた為、余り正確には出ないそうだ。一応、具体的な時間は出ているそうだが、今回は参考にしない方が良いだろう。犯人が犯行時間を操作する事も有り得るからな――ところで、先程から九条くんは遺体を見て何を考えているんだい。いつもなら興味津々に口を挟んでくるはずだが。妙に話さないから不思議に思って――」
「……ぼ、僕の知り合いです、山科さんは」
声が震えながらではあるが、九条が返す。
「何、どういった関係かい。場合によっては重要参考人として話を聞かなければ。友達か、恋人か……恋人か。それとも、恋人か」
烏丸がしつこく言い迫る。
「恋愛をするのは、あの日以来やめました。大切な人を失って、初めて現実を知りました。もう、あんな想いなんてしたくないので。因みに、彼女は中学の同級生でした」
「なるほど、済まないな」
「別に良いですよ……次に行きましょう」
「そう言えば、この藁人形は何ですか」
ペンを手帳にの側面に挟んだ熊取が、烏丸に問いかける。
「ああ、これかい。見てみるかい」
そう言って烏丸が差し出したのは、現場の様子を納めた数枚の写真だった。
「この藁人形は、遺体の近くの岩の上に乗っていたものだ。釘で刺された紙にはダイイングメッセージが書いてある」
『ストロードールは笑わない』
「新聞やスポーツ紙の記事の切り抜きで作られていますね。とても懐かしいです。こういう画を見るのは」
「やっぱり、烏丸くんは覚えていたか。あの事件の事」
「覚えていない訳が無いですよ。あれが僕の青春の終わりでもあり、探偵趣味の始まりでもあるんですから」