「空蝉の恋」 第九話
「温泉に行かなかったんだって?和仁さんから聞きましたよ」
「考えたんだけど、二人では無理って思ったからそうしたのよ」
「そうね、いきなりは無理よね。息子がインフルだから、移っているといけないので、今週はエアロビもテニスも休むわ。大丈夫だったら来週から復帰する。一人で頑張ってね」
「そうなの、どうしようかな・・・」
「ダメよ、サボったら」
「そうね。頑張ってゆくわ」
一人でレッスンに来た私を見てコーチは普段話しかけないのに、レッスンが終わると話がしたいと言われて、ロビーで待っていた。お土産も渡したかったのでちょうど都合が良かった。
「すみません余計なお願いをして」
「いいえ、構いません。あっ、これ旅行のお土産です。気に入ってもらえると嬉しいのですが」
「本当ですか?ありがとうございます。あなたからのプレゼントならとびっきり嬉しいです」
「まあ、そんなこと恥ずかしいです」
「そういうところが可愛いですね。午後のレッスンが今日はないのでランチでもいかがですか?ご迷惑かな?」
コーチから急に誘われて少し私は迷った。恵美子の顔がチラッと浮かんだからだ。
「はい、私とでよろしいのですか?」
「当たり前じゃないですか。他に誘うような人はいませんよ。ボクの車でちょっと離れていますがいいところがあるのでそこへ行きましょう」
言われるままにコーチの車に乗ってレストランへ向かった。
不思議だ。和仁の時は断ったのに、コーチだとこうして付いてきた。温泉とレストランの距離的な違いはあったが、男の人に誘われて二人だけで車に乗って出かけたことは、今日が初めてだった。
シャワーを浴びて何か香水でもつけたのだろうか、車のなかは良い香りが立ちこめていた。
自分も夫も香水類を使わないので、初めての体験に気持ちがふわっとなっていた。
「内田さんは、好きな人がいますか?」
ええ?何ということを聞くんだと一瞬思った。夫がいることを知っているのに。
「どうしてそんなことを聞かれるのですか?」
「いや、気になったものですから。深い意味はありません」
夫がいます、夫が好きです、と即座に言うべきだっただろう。
何も言葉を返さなかったことが、いや言おうとしなかった自分の態度が、相手のペースになってゆく機会となってしまった。
作品名:「空蝉の恋」 第九話 作家名:てっしゅう