氷の音
人の居ない静かな店に、グラスの氷が溶ける音が響き渡った。
その音に気がついて顔を上げると向かいの席に座っていた女性は居なかった。
薄っすらと漂う彼女の付けていた化粧の香りが物悲しかった。少し前までその女性は僕の彼女だった。
溶けた氷は彼女が飲んでいたレモンスカッシュの入っていた氷だった。解けてグラスの底に落ちた様が、まるで今の僕の気持ちのようだった。
『何が悪かったのだろうか? 僕には彼女と恋人で居る資格なんか無いのだろうか?』
そんな想いが心に渦巻く。僕の何が彼女を怒らせてしまったのだろうか?
怒らせた、と言うのは少し違うかも知れない。彼女は僕の返事を聞く前に席を立ってしまったのだから……。
交際して、足掛け三年になる。ついさっきまでは順調だったのだ。今年の末には婚約して、来年には結婚する……そんな想いを抱いていた。恐らく彼女の胸の内も、それほど違わないと思っていた。実際、言葉の端々にもそれが伺えたからだ。
「わたしと趣味とどちらが大事?」
彼女が最後に僕に問うた質問だ。
僕は直ぐには答えられなかった。だって、彼女と趣味なんて比べられるものでは無いからだ。少なくとも僕の思考回路はそう出来ている。
『大事な彼女と自分が中心の趣味では比べる価値観が違う』
素直にそう思った。そして答えた
「そんな、比べられないよ」
重い時間が経過して、彼女が大きなため息をついて席を立ったのだ。そして踵を返して店から出て行ってしまった。「さよなら」と一言だけ残して……。
「どうですかねえ?」
「陳腐だな。五十年前だったら褒められたかもしれんが、今では素人のネット作家でもこれよりマシな文章を書く。お前一応プロの作家なんだから、もう少しマシなものを書いて欲しいな。書き直しだ」
僕の書いた文章が印刷されたA4の原稿の束を、先輩は無造作に突っ返した。それを受け取って
「次の締切は何時ですか?」
僕の質問に、咥えていたタバコを灰皿に潰して
「明後日の午前十時だ。それまでに俺が納得出来るモノを書けなかったら、この話は無かった事にして貰うからな。この陳腐な文章じゃ無いけど、溶けて無くなると思いな」
その言葉を胸にしまって、炎天下の街に出た。自分の部屋には帰りたく無かった。エアコンの調子が悪く、ロクに冷えない部屋で創作はしたく無かった。何処かクラーの効いた場所でこの文章を推敲したかった。
結局、行きつけの喫茶店に向かう事にする。先輩の勤務している出版社から地下鉄で一駅の場所にある店だ。
財布を探って見ると持ち合わせが少ない事に気がついた。Suicaの残高は僕が部屋に帰る分しか無かったはずだった。結局、喫茶店まで歩く事にした。距離にして一キロと少し。十五分も歩けば到着するはずだった。
正直、七月の炎天下に東京の街を歩きたいとは思わない。でも今の僕にはそれしか選択する事が出来なかった。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた声が迎えてくれた。お金が元心許無いのにこ、の喫茶店に来たのには理由がある。僕はこの店で飲み物を飲める回数券を持っているのだ。メニューの中から五百円以内のものなら回数券で飲めるのだ。回数券の残りは五枚はあったはずだった。
要するに僕はお金が無いので節約したいのだ。今日、先輩に見せた原稿が採用されたら、原稿料が入るので、楽になるはずだった。取らぬ狸の皮算用では無いが、正直宛てが外れたのだった。
いつもの席に座って、回数券を見せて「レモンスカッシュ」を頼む。ウエイトレスさんが「かしこまりました」と言って回数券を一枚千切って行った。出されたグラスの水を一口飲む。炎天下を歩いて来た者にとっては心地よい冷たさが喉を通り過ぎる。中に入っていた氷の欠片の一部を口に入れて噛み砕くと一層、その心地よさが増した。
黒い自分の鞄からポメラを出す。ポメラと言うのはテキストだけを入力出来るツールで簡易パソコンみたいな奴だ。僕は、外で創作をする時はかならずこれを使う。
ネットに繋がらないので創作に集中出来るのだ。結構愛好者は多く、新機種が出ると話題になる。最近D200という新機種だ出たのだが、少し価格が高いので今の僕には買えない。僕が使っているのは一つ前の機種のD100という機種だ。これも新型が出るので格安になったので買ったものだ。新しい機種はかなり評判が良いみたいだが、今の僕にはこれで充分だ。創作活動においては不便さは感じない。
出先で、入力して部屋に帰ってPCに移して推敲、校正する。だからポメラさえあれば僕にとっては何処でも書斎になりうるのだった。
「おまちどうさまでした」
ウエイトレスさんが僕が注文したレモンスカッシュを紙のコースターの上に置いてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
形ばかりの礼を言うと彼女は
「良くわからないけど、お仕事、余り上手くは行って無いみたいですね」
そんな事を言われてしまった。
「そんな事判るのですか?」
「判りますよ。毎日のように見ていれば」
ここには、ほぼ毎日来るが、彼女にそんな事まで見られているとは今まで思ってもいなかった。
「それは知りませんでした」
「だって、わたし、先生の作品、結構買ってるんですよ」
「え、僕が作家の端くれだって知っていたのですか? マスコミになんか全く出ないのに……」
「だって著作のカバーの扉に作者近影って載っているじゃありませんか」
言われて見ればその通りだった。最近は自分の姿を載せない作家も居るが僕はそんな事はしない。というより、そんな事も思いつかなかった。
半分笑顔を見せながらウエイトレスさんはカウンターの方に帰って行く。その後ろでマスターが笑っていたのが印象的だった。
二人の笑顔を見て、何か良い作品が書けるような気がした。その時グラスに入ったレモンスカッシュの氷が「カラン」と音を立てた。
<了>