病める道化師
何を食っても血の味がする。割り箸を噛みながら呟いたときには、もう十一時を過ぎていて、相変わらず表は雨が降り続き、奥の席で大騒ぎをしていた連中はとっくに店を出ていた。鉄の棒でも舐めたような味だ。近頃、何を食ってもそういう味がする。黒川は眠たげに卓に肘をついている橘を斜め下から見上げて、ぶつぶつとそういうことを言った。橘はいかにも「歯医者に行った方がいいんじゃないか」などと言いたげに口を動かし、それでも黒川の顔をまじまじと見て、なぜか何も言わずに視線を外へ逸らした。雨がひどい。傘など持っていない。昼間はよく晴れていたのだ。夕立かと思えば降ったり止んだりで案外長く、これは朝まで降り続くかも知れない。
「出ようか」
橘の言葉に、黒川は俯いて曖昧に頷いた。普段からあまり酔わない。ただただ脳が鈍麻して、眠いのだかこれが酔っているということなのかよく判らなくなってしまうだけだ。
「黒川、」
「酔っちゃいないさ・・・ただ眠くて」
橘の手が腕を取って黒川を立たせた。家まで送る、という橘の声が聞こえた。
「きみに言うことがあったんだ」
生温い雨を浴びて歩きながら、黒川は橘の手の中に自分の手を滑り込ませた。掌の中は乾いていた。濡れた自分の掌とそれを合わせるのが躊躇われて、彼の薬指と小指をまとめて掴んだ。掴んだ途端に歩道の端に躓いてよろけた。
きみに言うことが、と言った先に黒川が転ばないように腕を引っ張り上げた橘の顔があった。開きかけた口に雨が流れ込んで来た。
「何だよ」
「さあ、もう何だか忘れちまった。白状してしまいたい気分だったんだが。上手くいきやしない。ぼくはあまり酔わないから」
充分だよ、と橘が更に腕を引いてしっかりと肘を支えた。橘の気遣いが見当違いに感じられる。少しは酔った振りをしているのだ。───多分。
橘に支えられてもう一度歩き出す。足下はけして覚束なくはない。わかっている。わかっているが自分から踏み外す癖がついている。多分、支える橘の腕が心地よいので。
「橘、」
「うん」
「ぼくはきっと不幸になる」
橘は一瞬、次の一歩を踏み出すのを躊躇した。
「つまりそれは、ぼくはどう考えてもきみとは違うように生きてゆくに違いないと言う、予測だよ」
「ああ。それは、そうかも知れない」
ぼそりという橘の返答が可笑しくて、黒川は身を捩った。また足の下が斜めになる。世界は水の詰まった大きな硝子玉のようだ。
「だからきっと、きみから見てぼくは結局、不幸せな男に見えるんだろうってね」
今度こそ本当によろけて、水たまりに膝をつきそうになった。あっ、と言って橘が黒川の腹に腕を回した。黒川は顔を上げて、雨の味がする唇を舐めた。橘の唇も雨に濡れて色を失っていた。
「危ないぞ」
黒川は首を振った。
「でもきみだって不幸になる。ぼくと一緒にいるのなら・・・」
「どうしてそう言える」
やや憮然とした橘の口調を無視するように、黒川はあらぬ方向を向いたまま答えた。
「ぼくがそうするからさ」
雨は未だ止む気配もなく降り続いていた。雨の音にかき消されて聞こえなかったのか、橘は返事をしなかった。