病める道化師
涙を堪えるのは本当は至極簡単なことだ。黙って俯いていればいつまでも涙など流さずに済む。だが黒川がそれを止したのは、橘が悲しげに自分の顔を覗き込んだからだった。その仕草はつまり、黒川が泣いているのではないかと訝り───つまりそう期待していたということだった。
何かものを言えば確かに唇は震えたろう。その震えを雨水で濡れそぼった手で押し隠し、黙って堪えることを黒川は橘の悲しそうな表情を見て、止めた。こいつは同情している、と思った。同情しているので、起こりうる現実に対する当たり前の想像力が麻痺している。
黒川は顰めた目許もそのままに顔を上げ、雨に湿った橘のシャツの襟を睨みつけた。
「ぼくを抱けよ、橘」
口を開いた傍から嗚咽が込み上げて来た。以前に彼を罵ったときは胸が痛んだが、今はもう何だか判らなかった。
「さもなければ、今すぐここで、死んでやるからな」
学生の多い駅前の居酒屋は夏休み前の雨の下で混み合っていた。差し向かいで座った入口近くの席は冷房が届きにくく、蒸し暑かった。試験が終わったのを祝って騒ぐ連中と同じ顔をしているつもりが、どこか違ってしまっていた。それが自分と目の前の友人との関係の異質性そのものに思われて、黒川は橘がそんなものに決して気付かなければいいと思った。
大学に残るつもりだ、と橘は憂い顔で言った。なかなか減らない生ビールのコップの中へ呟くように言ったせいで、その表情がやたら暗く見えたのかも知れない。うちへ帰って寝るより研究室で夜を明かす日数の方が多いような、それも好きでそうしている節のある橘のような学生が、大学に残るという進路について憂い顔でいる理由はない。黒川は橘がこちらを見ていないのを残念に思いながら、わざと癪に触る類いの笑みを口許に貼り付けて、ぼくもだ、と答えた。
「病理にかい?」
ふと目を瞠って問い返した橘が、黒川の口許を見て指先に棘でも刺したような表情をした。ざまあみろ、と思う。思いながら朗らかに笑って、黒川はビールの瓶を引き寄せた。
「なんだ、まるで向いてないとでも言いたそうだな」
飲めよ、と無理に瓶を突き付ける。橘は迷った揚げ句、仕方なさそうにコップを空けて盃を受けた。温み始めたビールは泡立ちが悪い。
「そうさ。論文のための勉強をさせて貰うだけのつもりなんだ。きみと違ってぼくは、臨床で名を上げるつもりでいるからな」
「その大それた言い回しを聞くのも、そろそろお終いかと思ったのに」
「寂しがって損したか」
「うん、まあそうだな」
黒川は素っ気なく鼻で笑い、ビールを呷った。橘と飲む酒はアルコールの味がしない。薄めた毒を飲んでいるような気がした。つまみに手をつけようとして、苛々と箸を置いた。そんな心地がするようになったのはいつからだったかと思った。
真冬の朝のように透き通った視界で見える、これからの自分の進路の一本道に比べて、橘を巡る些末な日常の感覚は夏の池のように温く濁っていた。どちらが生々しいかといったら後者で、どちらが現実的かといったら前者だ。初めての解剖実習で感じた空恐ろしい生々しさが回数を重ねるごとに薄れていったように、澄み切った現実の中にこの濁った感覚もそのうちに薄れていくのだろうか。そうでなければ困る。
黒川はどちらにしろまた博士号を取るまで続く、自分と橘の有り様を思って、ぽつりと呟いた。
「大学になんか残ったら不幸になるぞ」
なんだそれは、と言って橘が小さく吹き出した。
「きみみたいに糞真面目な朴念仁が、」
「俺は平気だよ、研究にばかり興味があるだけなんだから」
「さあどうだか心配だね」
「俺はきみの方がどこかでもし蹴躓いたら、不幸になりやしないかと思うよ」
黒川は唇を歪ませて笑い、それから橘の笑みの屈託のなさをどこか憎らしく思った。綻んだ口許の作る表情の健康さ───奥の席で試験が終わったのを祝って飲んでいる連中と同じ屈託のなさだった。
「ぼくが、躓くもんか」
「そうだな」
「きみの開き直り方は本当に癪だ」
「不幸になるだなんて言い出すからだろ」
「いいさもう何でも、一緒に不幸になろうよ、橘」
黒川は異物でも吐き出すように言い、橘の口許が笑うのを止めてしまう前に目をそらした。