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The Zone

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「こんなシーンでリラックスしようなんて考えたら半端になっちまう、プレッシャーと真正面から向き合え、お前の後ろにはチームメイトやコーチ、スタッフ、それに数百万のバンデッツファンがついてる、その気持ち全部を背負う覚悟でポジションにつけ」
「そんな無茶な……」
「何のために来る日も来る日もボールを蹴り続けたんだ? 頭がどれだけプレッシャーを感じてても体が機械のように正確に動く、そのためじゃないのか? それがプロのキッカーだ、ここでそれが出来ないようならお前が俺を超える日は永久に来ない」
「……」
 返す言葉は何もない、プレッシャーの中で蹴り続けてきたベテランキッカーだからこその言葉だ……。
 76,000人の観衆の大半はロッキーズファン、タイムアウトの間もブーイングが鳴り止まない、しかし、飛鳥の耳からそのブーイングが消えて行き、コワルスキーの言葉しか届かなくなる。
「絶対に決めろ! これを外したらぶっ殺してやる!」
 命までは取られない、と言った男が正反対の言葉を口にする……だが、飛鳥はコワルスキーの目を見据えて頷いた。


 2分のタイムアウトは終了、チームメイトがそれぞれのポジションにつく。
 飛鳥は軸足となる左足を踏み込む位置を確認して、そこから逆算するように後ずさりしてポジションを決めた。
 大丈夫だ、何の違和感も感じない、体は際限のない反復練習を憶えている……。
 そう感じた瞬間、まずはスタンドが、続いてロッキーズの選手達が、そしてチームメイトの姿が霞をかけたように消えて行った。
 何の音も聞こえない、見えているのはボールとゴールだけ……。
 
 ボールがスナップされた。
 綺麗なスパイラルがかかっているのがはっきりとわかる、回転数まで数えられそうなほどだ。
 ホルダーがスナップされたボールをキャッチする寸前、飛鳥は一歩目を踏み出す……そのタイミングに違和感はない。
 ホルダーがボールを立てた直後、軸足を踏み込む……位置もぴったりだ……既に右足はキックの動作に入っている。
 後は振り抜くだけ……。
 飛鳥の目に、まるでスローモーションを見ているかのように、スパイクがボールを捉える瞬間が飛び込んで来た。
 
 バン!
 
 自分がボールを蹴った音を合図に、飛鳥の目から霞が晴れ、チームメイトの姿が戻り、ロッキーズのオレンジ色のジャージが目に飛び込んで来る……ラミレスが手を伸ばしている……大丈夫、ボールはその指先の5インチ先を通過して行った……観衆の姿が戻ると、76,000人の悲鳴が飛鳥を包んだ。
 ボールはまっすぐゴールに向かっている、後は距離だけ……。
(行け!)
 飛鳥の気持ちに押されたかのように、ボールはグンと伸びて行く
 そして、左右ゴールポストの下でボールを見上げていた審判が頷き合い、両手を高々と上げた。
 
 フィールドゴール成功!
 
 17-16、残り時間はゼロ、バンデッツの勝利! そして14年ぶりとなる地区優勝だ!
 ホルダーのジャクソンが真っ先に飛鳥を抱え上げると、フィールド内から、サイドラインからバンデッツの選手、コーチが駆け寄って来て、飛鳥はもみくちゃにされた……。

「ありがとうございます!」
 真っ先に礼を言いたかった選手は、サイドラインで松葉杖をついていた。
「良くやったぞ、『ゾーン』に入ったな」
「ゾーン?」
「なんだ、知らなかったのか……ボールとゴールしか見えなくならなかったか?」
「ええ、確かに、何も聞こえなくなりましたし」
「極度に集中するとそういう異次元に入り込むことがあるのさ、俺も数回しか経験がないがね」
「あれがそうだったのか……」

 例えば野球の名バッターが「ボールが止まって見えた」と、テニスの名プレーヤーが「自分の打つべきボールのコースが線になって見えた」と、体操の選手が「全ての音が消えた」と表現した境地、そこに自分も入り込んでいたのだと知った。

「プレッシャーから逃げるなとアドバイスして頂いたおかげです」
 飛鳥は深々と頭を下げた。
「よせよ、日本式の礼は良く知らないんだ、握手だけで充分だ……もっとも、俺は強力なライバルのステージを一段上げちまったようだがな」
「あ、でも、あの約束も忘れていませんよ」
「約束?」
「ほら、デンバー一のレストランで最高のステーキを」
「そうか、忘れてたよ……俺もすっかり集中していたようだな」
 そう話すコワルスキーの視線は、飛鳥を外れてその背後にちらりと注がれた。
「まぁ、ステーキの前に食らわなくちゃいけないものもあるみたいだがな」
「え? なんです? それは」
 
 飛鳥はまだその時、NFL名物の手荒な祝福、『ゲータレード・シャワー』の魔の手が忍び寄っていることに気付いていなかった。

バシャッ!
「うほ~っ!」

 12月のデンバー、夕刻ともなれば気温は氷点下、その中でスポーツドリンクの巨大なジャーの中身を浴びせられては堪らない、あまりの冷たさに地団駄を踏んでしまうほどだ。
「ワッハッハハーッ」
 荒っぽい仲間達は濡れ鼠になった飛鳥を見て大笑いしている。
「ハハ、ハハハハハ」
 飛鳥もつられて笑い、その時、本当に自分もNFLチームの一員となれたことを実感していた。


(終)
作品名:The Zone 作家名:ST