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 地歩が机の中に隠していた秘密のノートの中には、少年同士と思われる人物の、性交を思わせるイラストが、みっちりと描きこまれていた。その中には、蕩子がタイトルだけぼんやり知っている漫画のキャラクターに似た人物や、この学校の生徒会長をモデルにしたらしい少年も混ざっていたりした。
 やおい的な世界に疎い蕩子には、そのとき、地歩が魔女か何かのように見えた。
 地歩は、ひとしきり蕩子を罵った後、「見られたからには生かしておけない」というような、恐ろしい科白をつぶやいて、しばらく考えた後、「仲間になってもらう」といった。
 蕩子は、吸血鬼の寝台に載せられた美女のように震えあがり、たかが同級生の同性にとらわれていく未来を予感した。
 

 その過程は、想像していたよりずっと甘美で、緩やかな長い坂だった。地歩は毎日少しずつ、休日や放課後を使って、自分の部屋で蕩子に「ボーイズラブ(BL)の世界」をレクチャーした。
「あのね、単純に男同士ならいいって話じゃないの。女体化っていって、女のコにしちゃうジャンルもあるし」
 一般人が書いた「腐女子の生態」みたいな文章は、たいてい間違ってるし偏ってる、と地歩は言った。諦めているような顔で。ちなみに、彼女の言う「一般人」とは、要するに、BLなどのオタク文化に毒されていない人々のことだ。
 この話をするときの地歩は、「ずっと処女でいたい」という願いが理解されないときの蕩子と同じ顔をしていた。歪んでいるというほどではないけど、不快きわまりないといった感じの困惑顔。
「女体化って、なんで一定数の需要があるの? 女の自分から離れたくて、男しか出てこないBLを求めたんじゃないの?」
 蕩子はこの世界ではまだまだビギナーなので、初心者の思いこみ混じりの問いをぶつける。地歩の好きな漫画を読み、借りた同人誌や教えてもらったサイトで、それらをモチーフにした二次創作物に目を通したが、すべてを理解することはできなかった。生粋の腐女子ではない蕩子には、ついていけない面も多い。 
 今俎上に載っている「女体化」というカテゴリーの作品は、特にそうだ。だって、男であるキャラクターや対象をわざわざ女の身体に変換してから、絡ませるのだから。
「もともと女同士のカップリングじゃ、だめ?」
 重ねて訊いたら、地歩は首を振った。
「もとは男なのを、あえて女にして描くからいいんだもん。だって、最初から女だと、底が見えちゃうじゃない?」
「え?」
 ここで地歩は、自室の本棚から、ノートのように薄い本を一冊引き抜いて、見せる。地歩の部屋は、ボーイズラブ関係の商業誌や同人誌であふれていて、研究室のようだ。ネット上では見た目そのものの「薄い本」と呼ばれることも多い同人誌は、出版社を通さずに、素人目線の奔放な「萌え」を形にしたものが表現されている。書き手も若く、蕩子と同世代がボリュームゾーンだ。
「ほら、これだけどね」
 地歩が先ほどの例として示したのは、四十代の男性アイドルグループを元ネタにした、女体化同人誌だった。人気アイドルグループ「Love Cheer」のメンバーが、先天的に女性だったらという設定で描かれている。女性として生まれ育っているはずなのに、一人称は、現在と同じ「俺」「僕」で、名前もそのままだ。年齢もリアルを反映していて、人気度も社会での評価も、現実の彼らをそっくりまねている。
「普通、女だったら、四十代であの人気を維持してるとかありえないし、京や幸太みたいに結婚してるメンバーがいたら、ぎくしゃくしたり活動休止したりするじゃん。ナツみたいにタトゥーしたり、元ヤンだったりしたら叩かれまくりだろうし。もともと女だったらそういうとこに突っ込み入れたくなるけど、元が男のアイドルを身体だけ女にして、社会的地位とか評価とかは男のままにしてあるから、楽しめるの」
「なるほど……」
 具体的なケースを見せられて、蕩子は納得した。
 地歩から蕩子への「授業」はたいてい、一日ひとつで、あまりいっぺんに多くのことを説明されることはなかった。地歩自身は自分の名をきらっているけれど、「地道に歩んでいく子に」という、親の願いをある意味体現しているように見える。
 腐女子と呼ばれる少女たちは「どうしようもないブス」のイメージで語られることが多いが、地歩は、決して醜い少女ではなかった。かといって、美人でもない。授業中だけ眼鏡をかけ、わかるかわからないか程度に髪を茶色に染めている、普通の女子高生だ。説明するほどでもないし、ひとに訴えることでもないからと、地歩は自分の容姿の話をあまりしない。蕩子もわざわざ、話題にしない。ただ、偶然女に生まれた者は、偶然男に生まれた者よりも、容姿で語られることが多いように感じていて、この意識はぼんやりと二人に共有されている。
「蕩子は、一生処女でいたいんだっけ。なんで?」
 あるとき、A6サイズのBL漫画を読み終えて伸びをしていた蕩子に、地歩が訊いた。仲を深めて二ヶ月が経ったころに、蕩子がちらっと打ち明けたことを、ふと想い出したらしい。打ち明けたそのときは、「ふうん」と軽く鼻で返事をしただけだったのだが、それはきっと、デリケートな話だから、踏み込むのを遠慮したのだろう。三ヶ月が過ぎた今はもう、些細なことではユラがないくらいの関係が築かれたから、何気なく尋ねているのだ。きっと。
「……病気が怖いから」
 蕩子は、少しためらってから、正直に答えた。なんだか神経質だと思われそうでいやだったのだが、地歩にわかってほしい気持ちもあった。
「病気かぁ。まあ、確かに、セックスでうつる病気ってけっこうあるしね」
 地歩は、自分のホームページを更新しながら、浅く共感してくれた。
「そっちは?」
 蕩子は、液晶画面の中で「水素」と隠語で呼ばれるセックスシーンがつづられていくのをながめながら、訊く。なぜ性行為を「水素」と表現するのか尋ねたときに、「元素記号」と答えが返ってきたときはさすがに驚いた。そんなことまで直截表現しちゃいけないなんて、女子の世界どんだけ窮屈なんだよ、と。
「うーんとね、私の場合は、名前」
 地歩はエンターキーを押してから、言った。
「自分の名前、きらいだから。エッチしてるとき呼ばれたらぜったい冷めるもん、私」
「へぇ」
 すぐには、言葉が出てこない。
 蕩子自身は、それほど自分の名前がきらいではなく、「とうこ」と呼ばれたってべつに不快ではないからだ。あだ名が「とうちゃん」になったりするのと、「淫蕩」と打たないと変換できなかったりするのは不便だなと思ってはいるものの。
「ネットでは、違う名前使ってるんだっけ」
 蕩子は、思い出して訊く。
 ペンネームというかハンドルネームというか、地歩のネット上のなは、「朱日」という、本名とはにてもにつかないものだった。こう書いて「ジュディ」と読ますのがちょっとカッコイイ。
「親が与えてくれたものだからとか、やたら、生まれ持ったものにこだわるひといるけど、自分で選べないものであれこれ決まったり判断されるのって理不尽だよね」
 現に、与えられたものに不満がないひとだけしかこのての保守的な主張はしないだろうと地歩は続けた。
 そりゃ、そうだ。