家族の季節
娘の春(二)
葉子は急ぎ足で店へと向かった。でも心は反対で、店に着くのを少しでも伸ばしたかった。
商店街は平日の午前中とあって、ベビーカーを押す母親や、お年寄りが行き来している。そんな石畳の商店街の角にある小奇麗なコーヒーショップ。店に入ると、茂樹の姿はすぐ目に止まった。他に、客は二組くらいしかいなかった。
葉子に気がついた茂樹は立ち上がり、何とも言えない表情で迎えた。
「千佳はどうしても僕に会いたくないのですね」
「いい歳をして困った子で……話し合わなければどうしようもないのに」
「それで千佳はお義母さんには何て話しましたか?」
「それが……言いにくいのだけど、茂樹さんに女性がいると……」
「そうですか。何を根拠にそう思ったと言っていましたか?」
「最近夜中に携帯を見ていることを不審に思っていたところ、昨日、何度もメールが鳴るので緊急かと思って見たら女性からだったと。何か誤解があるのよね?」
葉子は茂樹の次の言葉を固唾を飲んで待った。その返答によっては、娘と孫の人生が狂ってしまうかもしれないのだ。
ちょうど運ばれてきたコーヒーを一口啜ると、茂樹はおもむろに口を開いた。
「お義母さん、女性からのメールというのは本当です。でも夜中に携帯を見たことはないですし、その女性も夜中にメールを送ることはありません。そして、送られたメールは、誤解を招かないよう読んだ時点で消去しています。
ただ、昨夜は夕方から宴会が始まり、送られたメールに気がつかないまま帰宅したのだと思います。深酒のせいで、実はあまり記憶がないくらいで……」
「ということは――つまり、女性がいることを認めるというのね?」
葉子は質問をしながら、一方では耳をふさぎたかった。答えを聞くのが怖い……
「長くなりますが、話を聞いてもらえますか?」
茂樹は、千佳と出会う前に、職場に新入社員として入ってきたみどりの上司になった。みどりは不器用で仕事を覚えるのが遅かったが、まじめにコツコツと仕事に向き合っていた。
素直でおとなしいみどりに好感を持ち始めた頃、茂樹は先輩の強引な誘いを断りきれず、合コンに出席した。そこで出会ったのが千佳だった。
快活で場を盛り上げ、華のある千佳に同席したメンバーたちはみな狙いをつけた。しかし、どういうわけか千佳は、座の隅で目立つこともなく先輩に酌をしている茂樹にだけ連絡先を教えた。茂樹も悪い気はしなかった。
そして、ほどなく二人で会うようになった。積極的な千佳の方から何でも決めてくれることは、女性に奥手な茂樹にとっては楽で、一緒に過ごす時間も楽しかった。こうして付き合いは進行していき、みどりへの淡い想いはいつしか消えて行った。
やがて二人は結婚したが、いざ結婚生活が始まると、千佳の長所であるはずの快活さが、茂樹はだんだん疎ましくなってきた。そして、愛が生まれてからは、母親としての自信が加わったせいか、何でも自分の思い通りにしようとする気の強さが一段と増してきた。
茂樹はそんな千佳と一緒にいることがしだいに疲れるようになっていった。娘の愛に対しても自分の意見を押し付け、これから教育方針でぶつかるのは目に見えている。
そんな時、しばらく部署が離れていたみどりが、茂樹のグループに再び配属された。数年の歳月を経て、みどりは大人の女性に成長した姿で茂樹の前に現れた。
すっかり仕事にも慣れ、人当たりのいいみどりは誰からも好かれていた。茂樹もみどりといると安らぎを覚え、入社当時の話に花が咲き、二回ほど、二人で食事をした。
食事とメール、それだけの間柄だが、心はみどりの方に傾いていくのがわかった。でも、自分には家庭があるし、みどりは純真な娘だから、今以上の関係になるつもりなどない。むしろ気持ちにけじめをつけるという意味でも、みどりに幸せな結婚をしてほしいと願っていた。
ところが今回、携帯を覗き見るようなことをした上、自分を正当化する嘘をつき、嫌なことは母親に押し付ける千佳を目の当たりにして、茂樹の心は今や完全に離れてしまった。たとえ、みどりとのことがなくても、こうなるのは時間の問題だった気がする。
「お義母さん、言いにくいのですが別れることを考えさせてください……もう千佳とやっていく自信がなくなりました」
話を聞いていた葉子はわが子の側に立つべき立場にありながら、茂樹に感情移入してしまう自分をどうしようもできなかった。
「わかりました。おとなしい茂樹さんと千佳は相性がいいと思っていたけれど、あなたが無理をしていたのね。
母親の私が言うのも変だけど、確かにあの子は自分勝手できついところがあるわね。でも、そんなところを本当に受け止めてくれる人でなければあの子も幸せにはなれないでしょうから」
「すみません……」
「嫌味に聞こえたらごめんなさい。そんなつもりで言ったわけではないのよ。でも私が納得しても本人の問題だから、あの子にどう伝えたらいいか……変に刺激して、意固地にでもなったらこじれるだけだし。
とにかくその女性とは何でもないと言い通してくださいね。実際何もないのでしょうけど、メールや食事だけでもあの子には許せないことだと思うから。
それからのことはじっくり考えることにして、まだ別れ話は切り出さない方がいいわ。当分はこちらにいるつもりらしいから冷却期間を置くことにしましょう」
「でも僕としては……」
「わかっています、やり直す気はないのよね。冷却期間というのは表向きで、実際は善後策を考えるための時間稼ぎですよ。愛のことだってあるし」
それだけ言うと、葉子はうつろに窓の外を見た。
千佳をすんなり納得させる方法などあるのだろうか……それより、茂樹を翻意させる方法はないだろうか……そもそもこのふたりの結婚は間違っていたのだろうか……
いろいろな思いが頭を巡ったが、こんな時頼りになるはずの夫は決まって仕事を理由に逃げ腰になる。
「お義母さん、こんな時になんですが、おめでとうございます! 今日お誕生日ですよね」
いつのまにかテーブルの上にケーキが運ばれていた。そういえば、さっき、茂樹が店員を呼びとめて何か耳打ちしていたのを思い出した。
そして、葉子はすっかり忘れていた、あの突然の訪問者が現れるまでは、ケーキとブラウスを買いに行くつもりだったことを。
「私の誕生日、覚えていてくれるなんて……」
「ええ、毎年千佳にはお義母さんに何かお祝いするようにと言っていたのですが、その様子では千佳は何もしていなかったみたいですね」
家族の誰もが忘れている誕生日を娘婿の茂樹だけは覚えていてくれた。うれしいけれど、この人とはもう他人になるのだ、そう思うと葉子は淋しかった。
もう来年は誰も覚えていてはくれないだろう。