「見返り柳」改稿・人情噺編
「ああ、面白かったなぁ、吉原ってのはどうしてこうも面白ぇかね、ひやかしだけでも面白ぇからな……もっとも登楼れりゃもっと良いに決まってるけどよ、また雨の降る晩ってなぁ人出が少ねぇからな、あっちの見世、こっちの見世から声がかかって煙管の雨が降るようだったね、一回り良い男になったような気分がしたぜ、あんまり良い気分なんで子の刻過ぎちまったよ、早く帰ぇって寝ねぇと明日の仕事が辛ぇな、こりゃ…………おや? 見返り柳の下に女がいるね……あんまり女が来るような所じゃねぇんだけどな、とりわけこんな遅くにはな……」
さすがに不夜城と謳われた吉原、ここまで参りましても薄明かりが届きまして、女の白い肌と赤い唇をぼうっと浮かび上がらせます。
「ふふ、堪んないねどうも……もっとも、傘に隠れて下半分しか見えねぇけどよ…………声かけてみようかしら、何か訳ありみてぇにも見えるしな……そうしよう…………もし、こんなに遅く、それもシトシトと雨の降る晩だ、体に障りやすよ、第一、女ひとりじゃ物騒でいけねぇや……もし、こんな夜更けに女のひとり歩きは物騒だ、なんならあっしが……」
女が傘をすっと上げますと、顔の真ん中にまん丸の一つ目、途端に口も裂けて長くて赤い舌がべろ~ん。
「ででで……でた~!!!」
男がさしていた傘を放り出して駆け出しますと、女の姿はすっと消えて、後に残るは二本の傘ばかり……。
次の晩も江戸はシトシトと雨でございます。
「兄貴、面白かったなぁ」
「な、言ったろ? 吉原の冷やかしは雨の晩に限るってな」
「だな、袂を引っ張られすぎてちぎれるかと思っ……おや? 兄貴、見返り柳の下に女が二人……」
「本当だ……へへ、夜目遠目傘の内って言うじゃねぇか」
「兄貴、そのかさは違うよ、被る笠だよ」
「どっちにしても良い景色には違ぇねぇや……もし、そこのお二人さん、こんな夜ふけに女だけじゃぁ……あわわわ……」
「どうしたんだ? 兄貴……あわわわ……」
ぎょろり、べろ~ん。
「「で、でた~!!!」」
二人とも傘を放り出して一目散でございます。
それからも雨の晩となりますと、見返り柳の下、吉原の灯りにぼうっと浮かび上がる女の姿、ぎょろり、べろ~んでみんな傘を放り出して逃げ出すもんですから、傘は増える一方、女も増える一方、雨がそのあと三日も降り続きましたもので、夜中ともなりますと見返り柳を先頭に女がずらりと並ぶようになってしまいます。
こうなると物見高いのが江戸の男連中でございます。
「おい、聞いたか?」
「何を?」
「見返り柳のお化けよぉ」
「ああ! 聞いた聞いた、なんでも良い女だと思って声を掛けると一つ目って話だろう?」
「目だけじゃねぇや、口も裂けて舌をべろ~んと出すって言うぜ」
「薄気味悪ぃな、けどよ……」
「面白そうだよな、丁度今日は雨だ……行くか?」
「行こう、行こう」
なんて調子でお化け見物に出かける奴が出て参ります。
さあ、そうなってしばらく経ちますってぇと、『なんでぇ! 見返り柳の下のお化け、まだ見てねぇの? そいつぁいけねぇ、江戸っ子の名折れだぜ!』ってなことになりまして、見返り柳の前は押すな押すなの大繁盛、ひと月も経ちますってぇと女のお化けはお歯黒どぶをぐるりとひと周りしてまた見返り柳に戻って来るほどに増えちまいます。
初めのうちは夜鳴き蕎麦屋が儲かった位のものでしたが、そのうちに天ぷら屋が出るわ、すし屋が出るわ、四文屋が出るわ、おでん屋が出るわの大賑わいでございます。
お上の方でもこれは抛って置けないと役人を遣わしますが、捉まえようとすると消えちまいますんでどうにもならない、ならば、ってんで坊さんをかき集めて吉原を取り囲んでお経を上げさせますが、これもてんで効き目がありません。
喜んだのは吉原の周りで商売するものばかりじゃございやせん。
何しろわざわざ雨の晩に吉原まで足を運ぼうってんですから、『おう、ついでに吉原(なか)を冷やかして行こうじゃねぇか』となるのは目に見えてますな、冷やかしが増えればそん中には登楼る奴だって出て来る、抜群の経済効果、お化け景気でございます。
この騒ぎは直に武蔵野まで伝わって行きまして。
『へぇ~、江戸の街中じゃそんなことになってるだかね、おらもちょっくら見物して来んべぇ』
と出かけて参りましたのが耕作と言うお百姓。
実はこの男、今でこそお百姓をしておりますが、またの名を『安倍晴耕雨読』と申します、れっきとした陰陽師。
もっとも、かの安倍晴明から数えて三十代の子孫、息子の甥の孫のまた従兄の息子の孫の従兄の孫の……なにしろ蚊に刺されただけで晴明の血筋がなくなっちゃうんじゃないかと言うほどの遠縁ではございますが、その名の示しますとおり、晴れれば野良に出て、降れば陰陽道の習得に励む、という勤勉な男でございましたから陰陽道には良く通じております。
「ははぁ、こりゃ賑やかだ……ちょっくらごめんなさいよ、へえ、すまねぇけどちょっくら前へ出さしておくんなさいよ……へへぇ! なるほど、こりゃ見ものだ」
あちらでは傘に隠れた良い女、こちらでは一つ目のお化け、またそちらではすっと消えようという……見物の方でも大げさに怖がってさしている傘を抛り出して逃げるというのがお決まりになっておりまして、あちらこちらで「ぎゃ~」「うわ~」「でた~」の大合唱……もっとも出るのがわかっていてわざわざ行くわけですから本当はそんなに怖くはありません、まあ驚いて見せるのが一種の作法、お化けへの礼儀になってまして、「うわ~」も「でた~」も棒読みですな、で、その脇ではさし替えの傘を売る出店が大繁盛と言った具合でございます。
「ははぁ……なるほどなぁ、そういうことけぇ……」
しばらく眺めていて、お化けの正体を見破りました安倍晴耕雨読、夜も更けて人波が去るのを待って、一人の女に近寄ります。
「ちょっくらごめんなさいよ……ああ無駄だ無駄だ、一つ目を出しても舌ぁ出しても驚かねぇだ、おまえさんだな? この騒ぎの元は、いやいや、隠してもおらには見えてるだ、お前さんの他はみんなお前さんが見せてる幻影みてぇなもんだんべ?」
「そう言うあんさんは……?」
「おらは安倍晴耕雨読っちゅう陰陽師の端くれだ」
「え? 陰陽師? 晴耕雨読?……」
観念いたしましたのか、女はボンと音を立てて一本足の正体を現します。
「やっぱりだ、お前ぇ、唐傘お化けだんべ」
「へぇ、実はその通りなんで……」
「何だな、吉原で使われてた傘が化けたもんか?」
「へぃ」
「そんで吉原に恩返しってぇわけけぇ?」
「いえ、そういうわけではないんでございますよ、あたしはある花魁の持ち物だったんでございます」
「それがどうして唐傘お化けになんかなっただかね?」
「へぇ、まあ、みなに花魁花魁とは呼ばれてましたがね、まあ、中の下ってところの遊女でして、見てくれはそんなに……」
「まあ、こう言っちゃなんだけんど、お前さんもそう上等な傘には見えねぇもんなぁ」
「そう言われちゃ身も蓋もありやせんけど、この花魁、大層気の良い女(ひと)でしてあたしをたいそう大事にしていてくれたんでございます」
さすがに不夜城と謳われた吉原、ここまで参りましても薄明かりが届きまして、女の白い肌と赤い唇をぼうっと浮かび上がらせます。
「ふふ、堪んないねどうも……もっとも、傘に隠れて下半分しか見えねぇけどよ…………声かけてみようかしら、何か訳ありみてぇにも見えるしな……そうしよう…………もし、こんなに遅く、それもシトシトと雨の降る晩だ、体に障りやすよ、第一、女ひとりじゃ物騒でいけねぇや……もし、こんな夜更けに女のひとり歩きは物騒だ、なんならあっしが……」
女が傘をすっと上げますと、顔の真ん中にまん丸の一つ目、途端に口も裂けて長くて赤い舌がべろ~ん。
「ででで……でた~!!!」
男がさしていた傘を放り出して駆け出しますと、女の姿はすっと消えて、後に残るは二本の傘ばかり……。
次の晩も江戸はシトシトと雨でございます。
「兄貴、面白かったなぁ」
「な、言ったろ? 吉原の冷やかしは雨の晩に限るってな」
「だな、袂を引っ張られすぎてちぎれるかと思っ……おや? 兄貴、見返り柳の下に女が二人……」
「本当だ……へへ、夜目遠目傘の内って言うじゃねぇか」
「兄貴、そのかさは違うよ、被る笠だよ」
「どっちにしても良い景色には違ぇねぇや……もし、そこのお二人さん、こんな夜ふけに女だけじゃぁ……あわわわ……」
「どうしたんだ? 兄貴……あわわわ……」
ぎょろり、べろ~ん。
「「で、でた~!!!」」
二人とも傘を放り出して一目散でございます。
それからも雨の晩となりますと、見返り柳の下、吉原の灯りにぼうっと浮かび上がる女の姿、ぎょろり、べろ~んでみんな傘を放り出して逃げ出すもんですから、傘は増える一方、女も増える一方、雨がそのあと三日も降り続きましたもので、夜中ともなりますと見返り柳を先頭に女がずらりと並ぶようになってしまいます。
こうなると物見高いのが江戸の男連中でございます。
「おい、聞いたか?」
「何を?」
「見返り柳のお化けよぉ」
「ああ! 聞いた聞いた、なんでも良い女だと思って声を掛けると一つ目って話だろう?」
「目だけじゃねぇや、口も裂けて舌をべろ~んと出すって言うぜ」
「薄気味悪ぃな、けどよ……」
「面白そうだよな、丁度今日は雨だ……行くか?」
「行こう、行こう」
なんて調子でお化け見物に出かける奴が出て参ります。
さあ、そうなってしばらく経ちますってぇと、『なんでぇ! 見返り柳の下のお化け、まだ見てねぇの? そいつぁいけねぇ、江戸っ子の名折れだぜ!』ってなことになりまして、見返り柳の前は押すな押すなの大繁盛、ひと月も経ちますってぇと女のお化けはお歯黒どぶをぐるりとひと周りしてまた見返り柳に戻って来るほどに増えちまいます。
初めのうちは夜鳴き蕎麦屋が儲かった位のものでしたが、そのうちに天ぷら屋が出るわ、すし屋が出るわ、四文屋が出るわ、おでん屋が出るわの大賑わいでございます。
お上の方でもこれは抛って置けないと役人を遣わしますが、捉まえようとすると消えちまいますんでどうにもならない、ならば、ってんで坊さんをかき集めて吉原を取り囲んでお経を上げさせますが、これもてんで効き目がありません。
喜んだのは吉原の周りで商売するものばかりじゃございやせん。
何しろわざわざ雨の晩に吉原まで足を運ぼうってんですから、『おう、ついでに吉原(なか)を冷やかして行こうじゃねぇか』となるのは目に見えてますな、冷やかしが増えればそん中には登楼る奴だって出て来る、抜群の経済効果、お化け景気でございます。
この騒ぎは直に武蔵野まで伝わって行きまして。
『へぇ~、江戸の街中じゃそんなことになってるだかね、おらもちょっくら見物して来んべぇ』
と出かけて参りましたのが耕作と言うお百姓。
実はこの男、今でこそお百姓をしておりますが、またの名を『安倍晴耕雨読』と申します、れっきとした陰陽師。
もっとも、かの安倍晴明から数えて三十代の子孫、息子の甥の孫のまた従兄の息子の孫の従兄の孫の……なにしろ蚊に刺されただけで晴明の血筋がなくなっちゃうんじゃないかと言うほどの遠縁ではございますが、その名の示しますとおり、晴れれば野良に出て、降れば陰陽道の習得に励む、という勤勉な男でございましたから陰陽道には良く通じております。
「ははぁ、こりゃ賑やかだ……ちょっくらごめんなさいよ、へえ、すまねぇけどちょっくら前へ出さしておくんなさいよ……へへぇ! なるほど、こりゃ見ものだ」
あちらでは傘に隠れた良い女、こちらでは一つ目のお化け、またそちらではすっと消えようという……見物の方でも大げさに怖がってさしている傘を抛り出して逃げるというのがお決まりになっておりまして、あちらこちらで「ぎゃ~」「うわ~」「でた~」の大合唱……もっとも出るのがわかっていてわざわざ行くわけですから本当はそんなに怖くはありません、まあ驚いて見せるのが一種の作法、お化けへの礼儀になってまして、「うわ~」も「でた~」も棒読みですな、で、その脇ではさし替えの傘を売る出店が大繁盛と言った具合でございます。
「ははぁ……なるほどなぁ、そういうことけぇ……」
しばらく眺めていて、お化けの正体を見破りました安倍晴耕雨読、夜も更けて人波が去るのを待って、一人の女に近寄ります。
「ちょっくらごめんなさいよ……ああ無駄だ無駄だ、一つ目を出しても舌ぁ出しても驚かねぇだ、おまえさんだな? この騒ぎの元は、いやいや、隠してもおらには見えてるだ、お前さんの他はみんなお前さんが見せてる幻影みてぇなもんだんべ?」
「そう言うあんさんは……?」
「おらは安倍晴耕雨読っちゅう陰陽師の端くれだ」
「え? 陰陽師? 晴耕雨読?……」
観念いたしましたのか、女はボンと音を立てて一本足の正体を現します。
「やっぱりだ、お前ぇ、唐傘お化けだんべ」
「へぇ、実はその通りなんで……」
「何だな、吉原で使われてた傘が化けたもんか?」
「へぃ」
「そんで吉原に恩返しってぇわけけぇ?」
「いえ、そういうわけではないんでございますよ、あたしはある花魁の持ち物だったんでございます」
「それがどうして唐傘お化けになんかなっただかね?」
「へぇ、まあ、みなに花魁花魁とは呼ばれてましたがね、まあ、中の下ってところの遊女でして、見てくれはそんなに……」
「まあ、こう言っちゃなんだけんど、お前さんもそう上等な傘には見えねぇもんなぁ」
「そう言われちゃ身も蓋もありやせんけど、この花魁、大層気の良い女(ひと)でしてあたしをたいそう大事にしていてくれたんでございます」
作品名:「見返り柳」改稿・人情噺編 作家名:ST