予定調和
「なんて……タチの悪い冗談を言うんだろうと思ってた」
「冗談なんかじゃないの。私おかしいんだ、ごめんね、ごめん、貴方に殺されて食べられたい。皮膚も肉も内臓も骨も全部貴方に捧げたいの、私気持ち悪い? 私のこと嫌いになる? ねえ、んっ」
最後まで言葉を紡ぐことができなかった。鼻ごと唇を奪われて息ができなくなった。彼の舌が咥内に滑り込んだ。血を舐められた後だから、ほんのりと鉄の味がする。舌の裏をなぞられる。そのまま歯列を辿って唇を撫でる。ああ、溶けそうだ、と思ったところで、ガリ、と不意に唇を噛まれた。
「い、っ」
「本当は……ずっと人を食べてみたかった」
と、彼が呟いた。
「考えるんだ、何度も何度も。牛肉は牛肉の味、豚肉は豚肉の味、じゃあ人肉はどんな味だろうって……いや、違うな、君を食べたかった。君の味をずっと知りたかった。頭の中で何度も君を食べるんだ。だってこんなに美味しそうで」
「――あ」
彼の舌は首筋をなぞるように降りていき、そのまま鎖骨を滑った。そして喉に噛みついた。肉食動物が獲物を捕らえるように。痛くて苦しい。官能的な痛みだ、と彼女は思った。彼の荒い息遣いが耳に届く。ゾク、と思わず腰が浮いた。縋り付くようにその広い肩を抱く。もちろんそのまま食い破るようなことはできなかった。彼が口を離すと彼女はゲホゴホと咳き込む。お互いに息があがっていた。きっと躰を繋げてもこんな悦びは得られないだろう。このまま殺してよ、と息を荒げながら懇願した。
「まだだめ」
髪を撫でながら微笑んだ彼はいつも通りの優しい表情だった。
「本当に、俺に食べてほしいの?」
「本当だよ、本当に、ああ、好き、貴方が」
言葉は途切れ途切れになった。ぞくぞくと背が粟立つような感覚だった。もう戻れないと感じる。それでもいい。妄想の中の彼と目の前の彼が重なった。
「じゃあ、毎日少しずつ君を俺にちょうだい」
今日はこれでいいから、と先ほどの指先を再び口に含んだ。歯で圧力がかけられる。ぎちり、止まりかけていた血が再び溢れだして、焼けるように痛い。痛い。愛しい。気持ちいい。痛い。彼の歯型を覚えてしまいそうなほど強烈なその熱量。食い込んでくるその鋭利な熱情。たまらなく愛しい。まぐわう瞬間の電流のような衝撃――「ああ……!」
食いちぎられる瞬間絶叫と同時に彼女が果てた。嬉しさか痛みか、涙がボロボロと溢れる。彼は恍惚と彼女の指を味わっていたが、やがてその肉片を飲み下した。そして驚くほどいつも通りの優しい表情のまま、的確に止血を施した。
「美味しかった……?」
頷く彼に、彼女は虚ろに笑ってしがみついた。指先はまだ焼きつくような痛みを発していたが快楽の余韻のようなものだった。もう『普通』にはなれないと頭のどこかで警報が鳴っている。だけど彼がいるならもうそんなものは関係がなかった。そういえば、先ほどの開かずの間の中に一瞬だけ、大きな刃物が見えた気がする。ねえ明日はどこを食べてくれるの? と問いかけると、甘い甘い接吻が返ってきた。
―Happy End!―