謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~
「別に何もなんてこと……ないですよね?」
悠里は語尾を強めて要を見上げたが、彼も困ったように首をふった。
「何聞いてもこの調子でさあ。医者にも行ってないみたいだし、スタジオ入る前にちょっとよってもいい?」
「すぐおじさん呼んできます! まだ診察始まる前やし」
悠里がポニーテールをひるがえして病院の敷地に入ろうとすると、湊人がその腕をひいた。
「オレはそんなの頼んでない。サラ達とスタジオで待ち合わせてるんだから早く行かないと……」
「そんな怪我ほっとけるわけないやん。サラとルノにはあたしから連絡しとくから」
「だからもうオレのことはいいってば!」
苛立った様子で湊人が声を上げると、一瞬悠里が怯んだ。けれどその瞳に引く意思はないらしい。どうしたものかと要が首をひねっていると、病院の表玄関から白衣の男性が姿を見せた。
「なんや、騒がしいと思たら悠里ちゃんの友だちかいな」
「おじさん、急患です。診察お願いします」
そう言って無理やり湊人の背中を押すと、湊人が避ける間もなく六十前後の男性がつめよってきた。
「こりゃ派手にやったな。まあ、とりあえず中に入り」
白衣をひるがえすと、サンダル履きの彼は湊人に手招きした。有無を言わさないその動作に、湊人も断れずにいる。
「でもオレは別に……」
苦々しい顔つきをした湊人が絞り出すようにそう言った。すると男性医師はすっと目を見据えて言った。
「その手ぇ、炎症おこして明日には動かんようになるで」
それだけ言い残すと、さっさと玄関口から入っていった。「さっすが医者の殺し文句は強烈だなあ」と要が感嘆の声を上げると、湊人はぶっすりとむくれたまま医者のあとについていった。
朝の診察室はしんと静まり返っていた。こじんまりとした診察室の椅子に座らされ、湊人はそっとあたりを見渡す。乱雑なデスクや壁に貼られた見慣れない病名のポスターはどこにでもある病院の風景だが、デスクのまわりに飾られた無数の手紙や患者と思われる子供たちの写真が、無機質な病室を温かく彩っている。
男性医師は、まっさらなカルテに何やら書き込んでいる。どこからか漂ってくる消毒液のにおいが、記憶の底を揺さぶる。カーテンの向こうから聞こえてくる医療器具の重なる音や様々な薬品のにおいが、修介が事故死したあの日を呼び起こす。
「さて……と」
医師の声で湊人は我に返った。彼は触診で怪我の状態を確かめ、目の前で指を振ったり垂れ下がったまぶたをこじあけたりする。体のあざを隠すわけにもいかず、言われるままにレントゲンも取った。
「骨は折れとらんようやし、脳に異常がなければ問題なし、と。処方箋出しとくから調剤薬局に行くんやで。うちの薬剤師はまだ出勤前なんや」
カルテに素早く書き込みながら眉間に皺をよせ、「最近老眼がすすんでかなわん」とつぶやく。
医師は回転椅子にギィっともたれかかると、腕組をしたまま指をさして言った。
「問題はそれが普通の喧嘩やない、ということやな」
その言葉に湊人はギクリとした。うつむいたまま、何をどこまで話せばいいのか、そもそも洗いざらい話す必要なんてあるのか、と逡巡する。
「ガキどうしの殴り合いでそんな痣はつかん。道具を使てへんのは幸いやったけど、人を殴りなれてる感じやな。それと君のこぶし」
そう言われて、湊人は思わず左手で右のこぶしを覆った。散々診察されたあとなのだ、それが無意味なことだとわかっていても冷や汗が止まらない。
「君もそれ相応にやり返した、そうやな?」
「えっと……」
息が詰まりそうになりながら、湊人は医師を見上げる。彼は一瞬たりとも視線をそらそうとしない。
そのとき、医師が頬をふわりと緩めた。不意打ちを食らった湊人はこくりと頭をもたげた。
「そうでもして鍵を奪い返さないと、母さんがもっとひどい目にあうと思ったから……」
「……お母さんは病院には行ったんか?」
「わからない……」
唇をぎりっとかみしめて湊人はうなだれた。力を失くした湊人の肩に大きなてのひらが乗る。
「第三者の助けは必要か?」
その一言に湊人は目を見開いた。第三者の介入など、考えもしないことだった。
医師の瞳を見つめたまま、湊人は少し考えてから首を横に振った。
「いいえ……明日、母さんに会えたらちゃんと話をつけますから」
「そうか……もし困ったことになったら、ここに助けを求めてええ大人がおること、思い出してくれよ。君の怪我は、打たれどころが悪かったら死んでもおかしくないレベルや。まずは自分の命を大事にしなさい」
面と向かってそんなことを言う大人は初めてだった。自分の命を大事にするなど考えたこともなかった。
瞳からあふれそうになる涙をこらえていると、医師は眉を下げてやんわりとほほ笑んだ。
「それとこのことは、悠里ちゃんには言わんほうがええんやな?」
「はい……」
湊人は素直に返事をした。1から10まで説明しなくてもわかってくれる大人がいること――それがこんなにも胸に響いて感情を揺さぶられることに、戸惑いを隠せなかった。
「あの子は根が真っすぐやから不躾に聞いてくるかもしれんけど、うまいことやりや。心配してる友だちがなんも話してくれへんいうのは、けっこう堪えるんやで」
「はい……ありがとうございます」
湊人はゆっくりと頭を下げると、診察室の外に出た。医師の「お大事に」というやさしい言葉を胸にとどめながら、そっと扉を閉めた。
待合室には要と悠里、それから陽人が並んで座っていた。
要と陽人は大人の余裕、といった様子で缶コーヒーを飲んでいたが、悠里はギターのソフトケースを抱え込んだままじっと湊人を見上げてきた。
「指……どうやったん?」
「あー……折れたりヒビ入ったりはしてなかった。傷口からバイ菌が入ったらいけないから、化膿を抑える薬と炎症止めの薬を出すって言われた。一日三回飲めって……それから痛み止めの薬と軟膏と……」
指折り数えながらそう言うと、缶コーヒーを片手に持った要が盛大に笑い出した。
「なんで笑うんだよっ!」
「だってそんなことまで聞いてないのに、おまえってほんと律儀だなあ」
そう言いながら再びひとりで吹き出す。指をさされた湊人は腫れた顔をさらに赤くして「うるさいっ!」と要につめよる。
すると悠里と陽人も笑い始めた。ようやくほぐれた彼女の表情を見て、湊人はほっと胸をなでおろす。
「さっきは……きついこと言ってごめん」
湊人がぼそりとつぶやくと、悠里はギターケースを抱えたまま目を丸くした。
「……坂井くんが無事で何よりやん! さっスタジオ行こっか!」
勢いよく立ち上がるとポンッと湊人の肩を叩いた。湊人は思わず「いてっ!」と声を上げたが、それも笑いに変わった。
「いやーなんか安心した。さあ薬もらって、スタジオ行くかー。陽人くんも来るだろ?」
作品名:謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~ 作家名:わたなべめぐみ