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鬱体験記。(認知行動療法有り)+追記

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生い立ち




あくまでも幼少期の記憶ですが、私は6人兄弟の中でも人一倍甘えん坊な子供でした。

しかし年子の弟が居たこともあり、あまり構ってもらえることはありませんでした。母は甘えたな私に困っていた様でした。
寂しさ故、勝手に外出し近所のおばさんちに遊びに行ったり、構ってもらうために問題行動を起こしていたような気がします(幼心にやっていたので、狙っていたわけではないのですが)
母は呆れ果て、遊びに行く私に「お前はそこら辺の物を食うこじきと一緒だ。」「こじき」と繰り返し言いました。幼い私でも褒められていないことは分かりました。それから、母は「お前は八方美人だ」とも言いました。八方美人って、誰にでも良い顔をする事の人を言うのですよね。ですが、私は嫌味とも気づかず「美人」というワードにとても喜びました。
初めて与えられた誉め言葉でした。
そして、母は泣く私を家に一人おいていきよく買い物に行きました。とても恐怖でした。

それから、私は幼稚園に入園しましたがアトピー性皮膚炎である事をきっかけに保母さんを始めとした同クラスの子達に「汚い」と授業に参加させてもらえなかったり、朝の会では必ず保母さんに「sorちゃんは本当にダメな子ね」と罵られました。
毎日、幼稚園に行きたくないと暴れました。助けてくれる人はいませんでした。

その後小学校に入学しましたが、「先生」という存在が怖くて怖くて泣きながら通っていました。そのうち、アトピーであることが男子生徒にバレ、またいじめの標的となりました。
六年間、同級生に罵られ、友に裏切られの日々でした。
意を決して、父に相談しました。父は「みんなお前が好きだからいじわるするんだよ。こういうのはお母さんに言いなさい」と答えました。もう、相談はしませんでした。次に、夕食を食べながら「学校が辛い」と母の前で泣きました。母は、心配する兄弟に「放っときなさい。いつもこんなんだから」と打ち切りました。

自分の娘がいじめられている事を容易に受け入れられる親はいません。
なので、私にあの時の両親を責めることは出来ません。


小学校を卒業し、中学に上がりました。
今度こそはいじめられないようにと積極的に話したり沢山笑いました。
ですが、これはもうほとんど運命の様なもので、いじめは再開されました。
きっかけは、友人が不登校になったことです。不登校の理由が「sorが、悪口を言った」という様なものでした。吃驚でした。身に覚えのない事でした。
忽ち同学年の間で私は害悪なウイルスとなりました。「菌」だと菌付け回しをされ、殴られ伸し掛かられ物を捨てられ、自殺を促す手紙が送られました。授業中はホッチキス、ボールペン、消しゴム、ゴミが投げつけられ、席を離れれば机が倒されチョークやゴミに塗れ鞄は捨てられていました。私を省きいじめながら、同じように周りに省かれていた小学校の友人に、お昼の時だけ「一緒に食べよう」と利用されたりもしました(断ったらヒステリックに怒鳴られました)。
もう一人、同じように私といじめられていた友人Mに勧められ、その頃からリストカットを始めました。やめられなくなりました。

いじめは日々エスカレートし、いじめっ子達はわざわざ朝早くに学校に来て私たちのロッカーや私物、机と椅子に小細工(ごみを詰め、ほこりまみれにしたりらくがきしたり)をされるようになっていました。

殴られることもあったので生命の危機も感じ母に怯えながら声を絞り出して言いました。「学校でいじめられている。助けてほしい」と

母は、PCから目を離さず背を向けたまま一言返しました

「あんたの性格がそんなだからいじめなんか受けるんだ。めんどうくさい」

それから私は爆発して、もういじめを包み隠すことをやめました。
「辛い、苦しい。学校で今日はこんなことをされた」
今思えば既に病んでいました。
それを聞いていた兄弟は無視か「被害自慢きた」と母と頷いていました。


中学二年になると特別学級に通うようになりました。
そのまま教室にも行けず一年が経ちました。
私は一睡も出来なくなっていました。そして毎日下痢嘔吐していました。
たぶん、一日の睡眠時間は30~60分程だったと思います。
朝は格闘でした。父と母に「階段から引きずり下ろすぞ!!」「お前なんかパジャマのまま学校へ行け!!」と怒鳴られベッドから引きずり出されました。
仕方なく学校へ行った日は「いってきます」と言っても誰も返事してくれませんでした。頬を叩かれたこともありました。


とはいえ、中学時代はさらに問題行動をしていた私です。
両親の態度にも納得する部分はあります。
例えば、学校行きたく無さに授業を一時間さぼったり、学校を抜け出したり。



そんな地獄の日々が続いたある日、私の人生はさらに谷底へと落ちました。夏だというのに40度の高熱が続き、着替えも出来ない、立てない、嘔吐、頭痛、視界がぐにゃりと歪む等の症状が続き、意識を失い昏睡状態となりました。
その時には脳は大量の膿により出血。血液に菌が回る肺血症、肺炎、感染症。
頭を三回開いて膿を取り除いたものの、当時は右の瞳孔は完全に開き、左の瞳孔も8割開いており、医師からは「万が一助かっても植物状態でしょう」と言われていました。何せ、右脳は殆ど壊死していましたから。
そのうち、自発呼吸も出来ないし口からの食事も勿論できないので喉を開き管を通しました。鼻には栄養チューブです。腕は点滴で埋め尽くし、尿は看護婦がカテーテルで排出させるという状況でした。生命力や家族の力もあって、私は奇跡的に回復することが出来ました。

怖いもので、昏睡状態でも痛みは敏感に感じ取りますし、私の場合固まってしまい目も閉じる事が出来なかったのでCTや部屋の様子、手術の様子が夢に出てくるんですね。しかも恐ろしい認識のしかたで。
手術の痛み、治療の痛み(麻酔無しで骨盤に液をとるため?針を刺すとか)が長い長い拷問となって現れるんです。(わかりやすいのが世にも奇妙の「箱」です)

目覚めた私は幼児退行しており、声が出せないこともありますが赤ちゃんの様に辛い治療にだだをこね暴れました。だけど、幼少期は許されなかったあまえるという行為を許され嬉しくてうれしくて、お母さんがお見舞いに来るたびににっこり泣き笑いました。

正直、治療は拷問の様で痛みばかりで地獄でしたが、母が私を構ってくれる事が心から幸せでした。左半身麻痺で、言葉が喋れなくても、糞尿を垂れようと、頭に骨がまだ入ってなくても。
頭には「愛してもらっている」それだけでした。


ですが、危険域を超え、一般病棟の個室に移った私の精神状態はもう年相応でした。

そして夜な夜な泣きました「なぜ、死なせてくれなかったのか。生かされた意味があるのだろうか」「こうでもならなければ、愛情はもらえないのか」


幸せは一瞬でした。



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