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4月 空っぽの僕

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 うっそうとした淀んだ空気が充満する通勤電車内の、手垢やら指紋やらその他知りたくもないような得体も知れないものが斬新にペイントされた窓ガラスから見える家。赤煉瓦色の草臥れた外装、くすんだ青い屋根に奇妙に白い窓枠のこじんまりとした古い家。そして、日陰になった小さな庭から細くしなやかに伸びる瑞々しい緑の若木。ほぼ決まった時間に通り過ぎる、ほんの10秒程度のその景色は、いつも、朝から既に疲れて魂の抜け殻になっている僕を癒してくれる。勿論その家が何なのか、どんな人間が住んでいるのかそんな事は知らない。けれど、何故かいつからか、気付くとその家は僕を惹き付けていた。まるで、どうしてかだかわからないが、惚れ惚れとしてしまう物や美術品を眺めているような感じ。僕の心の奥底の敏感な部分をぎゅっと鷲掴みにする。
 吊り革に摑まって乾涸びた猿のミイラのように揺れながら、今日も生成り色の白々しい朝日に、片面だけ照らされて過ぎ去るその家を見送って考える。そうか。恋をした気持ちに近いんだな。
「あと一週間で月が変わりますが、今月の拡販商品の達成率は最悪です!一人一人、基本を踏まえた上で、自覚を持ってしっかり接客出来てますか? 正確に自分の売り上げを把握してますか? 今一度見直して、積極的に業務にあたってもらいたい!」
 朝っぱらから唾をかっ飛ばしてわざわざ言わなくても、この場にいる社員全員そんな事心底わかっている。遅出の先輩を覗いては。
 基本も踏まえているし、自覚も痛い程している。昼飯が咽を通らないくらいに自分の売り上げを把握し過ぎているし、それをなんとか伸ばす為に開店から閉店までの雑務の合間を縫って、死にものぐるいで積極的に業務を遂行している。さっぱり売り上げがないわけじゃない。それぞれの社員が、一日もなにも売ってないなんて日はない。ただ、会社が設定した高過ぎる目標額になかなか届かないのだ。それだけの事だった。そしてそれだけの事で、有給やらボーナスやらをぐちぐち言われたのではたまったものではない。やれる事は全力でやっているのだ。そう。週休二日制の休みまで削って充分会社に奉仕しているではないか。
「仕事効率悪い人間が、いっくら休日出勤、残業してもなーんの意味もねーだろ」
 そんな戯れ言を口走る先輩が一番売上率悪くて、みんなの足を引っ張ってんの知らないわけではあるまい。悪びれもせずに朗らかに定時にあがる先輩を、僕は先輩が起こしたクレームの配送伝票の修正をしながら遠い目で見遣った。・・・あんたのクレームだろ?
 けれど、その電話を受けてしまったのが僕だったので、自然と僕の仕事になった。溜息をついて、僕は鞄からマズい栄養ドリンクを取り出して一気に飲み干した。あーー本当にマズい。時間はもう20時を回っている。どうせ今日も22時だ。
 腹痛、頭痛、腰痛が常時当たり前の日常。バファリンとドリンク剤が相棒だ。そんな厳しい条件下で、女子社員達は体を壊すか早々にそれを危惧して辞めていったので、まるで放課後の野球部の部室のような汗臭い男だけの職場だった。特に喫煙室は悪臭の宝庫。僕は一段落区切りがついたので、とりあえず煙草を吸ってから残っている雑務に取りかかろうと思い、喫煙室のヤニ色にスモークがかったような扉を開けた。見渡す限りヤニで燻され、いつ来ても何とも酷い有様の元緑色だったと思われる長椅子に座り100円ライターで煙草に火を点ける。
 今日も大型ベッドの売れ行きは思わしくない。シングルサイズやセミダブルサイズのお手軽な価格のものならそこそこ売れてはいたが、クイーンサイズ以上のものになると難しい。そりゃそうだ。大体にして日本の一般住宅は、そんなバカデカイベッドを置ける程広々とした造りの家はそんなに多くないのが現状だ。どんだけの金持ちだ。
 それに例え夫婦で購入したとしても、ドラマで見るような幾つになっても一緒のベッドで寝るなんて事現実にはそうそうないもんだ。殆どはあっちの方が再起不能になり始めると、加齢臭やら鼾やら寝屁をこいたりなんかの相手がうっとうしくなってくるし、日本人は欧米人と違っていつまでもベタベタが継続出来る民族じゃない。ましてや狭い組み立て式日本住宅。それぞれの部屋自体も小さいのだから、個人の自由を尊重すると言う大義名分の元、下手すりゃ夫婦別々の部屋で休むのだって珍しくないんだ。現にそんな理由で使わなくなった大型ベッドを引き取って欲しいなんて、迷惑極まりない電話がかかってきた事だって何度もある。まったく。僕は煙を吹き出して、出来立ての柔らかい灰を灰皿に落とした。
「全然繋がらないのね。あなたはいつから留守番電話の女と付き合うようになったの?」
 2年程付き合っていた彼女がいきなり訊ねてきて、開口一番そう言われたのは3ヶ月前。そんなに経ったのかと我ながら会社のカレンダーを見て驚く。
「いつのまにか僕の代わりに、留守電の女が勝手に君の電話に出るんだ」
 彼女は冷ややかな眼差しで僕をじっと見据えると、世界が飲み込まれてしまうんじゃないかと思うくらいの深い溜息をついて言った。
「さよなら」
 そうして彼女は去って行った。僕はそれを休みのベッドの中から見送った。けれど、そんな事には構ってられないくらいに僕は疲れていて、彼女が出て行った扉からすぐに顔を出して現れた、猛烈な睡魔に抱かれて眠りに引きずり込まれてしまった。どっちみち忙し過ぎて構ってやれてなかったのは事実だったのだから、これで良かったのかもしれない。
 しかし、人間はいつから働く為に生きるようになったのか。元々逆だった筈だ。だのに、今の僕は何処をどう見ても働く為に生きているとしか思えない。それだけで精一杯で性欲にすら回す余裕がなく、いつからか枯れ尽きてしまっていた。
「性欲解消にはジョギングが効く。俺もいくら疲れていても、なるべく無理して走るようにしているんだ」
 それを同僚に話してみると、そいつが言っていた。
 いや、だってその前に性欲ないって言ってんだろ。しかも、疲れてるのに無理してって、むしろ体に良くない気がする・・・
「そのお陰かわからないけど、性欲も体調もいいような気がする」そう言っていた同僚は一週間後に急性心不全であっけなく死んだ。過労で心臓に負担をかけ過ぎたのだと診断された。やっぱり無理があったんだ。
 僕はジョギングは諦めて、駅からの帰り道なんかにもなるべく歩く事にした。すると、見る間に彼方此方から愛おし気に鼻にすり寄ってくる美味そうな食べ物の匂いに釣られて寄り道ばかりを繰り返し、気付けば体重が5キロも増えていた。なので、今度は折畳みの自転車を買ってみた。
 かなり小さくなる折畳みだから、電車にも持ち込めるし、ロッカーの横に置いておけば駐輪代も気にしなくてもいい。帰りに缶ビールまとめ買いしても苦もなく運べる。おまけに運搬賃はゼロだ。これは画期的だった。体重は目立って落ちもしなかったが目立って増えもしなかったので、僕はまぁ良しとした。どうせ気にするような事があるわけじゃないし。
作品名:4月 空っぽの僕 作家名:ぬゑ