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桜の木の下には

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 考えるたびに出てくる不安の根本だが、どれも確信に迫るものではないようで、不安を解消し、桜の樹の美しさに酔いしれ、酒でも飲めるような感情にはなれずにいた。
 
 私は先にも言ったように、特に何も持っていなかった。現代にも関わらず、電車のICカードすら持っておらず、帰りの電車の切符を買うお金と、水を一本買う程度のお金しかなく、例え不安が解消され、酒を飲もうとしても、その酒を買う金はなかった。宴を楽しむ大人と、それに付き合う大人もどきがわあわあ叫んでいるが、その内容は明らかに無意味なもので、語る営業論はほとんど無意味なものに思えて仕方がなかった。
 座ったまま、本を片手に桜を見ている。頭上に広がる桜の揺れが心の揺れに共鳴するようで、心の揺れがますます大きくなった。
 桜の揺れの度に、花弁や、葉、枝が揺れ、太陽の陽がさっと差し込む瞬間があった。足元に木洩れ日が現れるとそれに照らされた小さな蟻に目が行く。確かに動いているはずの蟻を寸法違わずきちんと照らしていた。揺れが変わり、木洩れ日が蟻を照らさなくなり、薄暗い中に同化した蟻も数秒後にはまた陽に照らされている。彼はきっと特別な蟻なのだ。彼の行動には適度にスポットライトがあてられる。
 蟻がその活躍を称賛されるたびに、私は不安になった。照らされているのは蟻だけではなく、私もそうなのだが、照らされる私を形容する、私よりもおおきなものがここにはいない。それが不安であった。照らされて変わる色を形容してくれる者はここにはいない。
 さらに不安に感じるのは、差し込む太陽の光なのだが、それを見ようと顔をあげれば光が目を刺激し視界を狭くさせる。まさにそれだった。狭くなった視界、少し黒くなった視界に入り込む侵入者がいつ私を殺しにかかるかわからない。
 私を殺したいと企む輩はおそらくいない。こんな老いぼれた一般人を殺そうとするものはいないのだ。しかし、この本の作者ならどうか。思考が一周して私を殺すことを思いつくかもしれない。いつか来る未来も不安の要素であった。

 ここで思考を繰り返しているのだが、私が不安に思うことの多くは未来のことで、過去のことを後悔したり、現在の憂鬱な感情に流され、心が不安定になるということはなかった。

 
 

 二度ほど通読した後、私は本を開いたまま人の往来と桜の散りを眺めてた。桜の落下の速度と人の歩く速度の差がなんともかみ合わず、気分を害するのだが、それを抑え込むほどの不安が心を支配していた。美しい花弁の落下を美しいと感じ、それに感情を任せ座っているのは確かで、その反面何か、まだ見つかっていないものに不安を感じている。
 私が座っている小岩は、大人三人は座れる程度の大きさの物であった。その空席をある男が見つけ、隣に座ってきた。間に一人入り込むことはできないほどの隙間があった。
 男は私と同じかそれくらいの年のようで頭に髪はあまりなかった。
 こういうとき、互いに干渉せず、時間を過ごすのが現代のモラルのように漂っているのだが、『桜の樹の下には』のころの時代ならば少ない言葉を交わし、桜の風景に情緒をかんじることもありそうなものだ。現代ではそういうことはない。ましてやこの東京。人は互いに干渉しない。
 だが、この男は干渉してきた。直接の干渉はないものの、ちらちらとこちらを見てくる。はらはらと散る桜や、頭上の桜の樹には目を向けず、公園の向こう側の線路の風景と、私の方だけを交互に見ている。

 男の直接の干渉は突然であった。
「その本はなんですか」
驚いた。こんな紙切れの集合体を本と呼ぶ輩が私以外にもいたことにだ。表紙などなく、ただの白紙が外には見えるはずで、そこに文が、しかも本としての文が書かれていると想像する者はそうもいまい。この男はおそらく作家なのだと私は勝手に決めつけた。
「ある作品を印刷しただけの物です」
「なぜ、それを読まずに広げているのです」
男は私が文を読んでいないこともわかっていた。目線が本ではなく、頭上や、桜の落下に向いていたため、そんな私の様子を眺めていた男がそう思うのは普通だろう。
「もしかして、その本は桜の樹の下には、ではないですか」
男は自然な流れでそういった。かなり驚いた。
「素直に驚きなのですが、なぜわかったのですか」
「この季節に桜を眺めながら読む作品で、あなたのように思いつめた顔をする作品で一番初めに思い浮かんだのがそれだっただけですよ」
驚きという言葉が頭に連呼され、正常な思考は遮断され、私には彼が昔の、この本の作家が生きていた時代からやってきたのではないかと本気で思ったのだ。私の様子だけでここまで推測が付き、さらに桜の樹の下にはが思いつく人間など現代にいるはずがない。
「あなたも読んだことが」
「ありますとも。あの時代、私はその人が一番好きでね。なんとも詩的な描写が忘れられない。なんども読み返しましたとも。中でもそれは一番好きなんですよ」
髪を触る仕草が男に現れたが、そこに存在しない髪から察するに、最近まで髪がそこにあったのだろう。
「なかなか外に出ることが難しくなって、私は本をただひたすら読んでいまして。あなたもその作家が好きなら私が夢中になるのがわかるでしょう」
そういった後、私は返事をしなかった。あの時代に生きていそうな男には返事は必要ないように思えたからであった。

 相変わらず桜の樹の下には屍体が埋まっている!という文が頭から離れずにいる。そばに立つこの木の根元にも屍体が埋まっているとしたら、それは何の屍体だろうか。ヒトか、犬か、猫か、蟻か。なんにせよその屍体から生み出されたエネルギーは凄まじいものだ。ほぼすべての日本人の美意識を支配しているのだ。見えない桜が空気中を漂い、他の美を霞ませる。
 無言の時間をある程度過ごしていると、ほんのわずかな気まずさが生まれた。こんなにも近い位置にいて、何も話さない。それまでの、現代の東京に流れる普通がどうもおかしく感じたのだ。無から有の変化より、逆の変化の方が私は嫌いであった。また不安の要素が増えた。
 しかし、これも無から有、有から無という過去の変化から生じたもので、気まずさは現在の物だが、それを現在の不安だということは私にはできなかった。私の不安は未来と過去から生じる。
 だとすると、この不安の本質もそのどちらかの物で、だとすればそれを見出すのは比較的容易だと感じた。過去ならば振り返り、未来なら飛躍した創造と直感的な思考さえ行えば、今後の展開はわかる。そのうち、この不安の本質はひょっこりと顔を出すだろう。


「ところで、桜は好きですか」
男は突然そう聞いてきた。私は突然の質問にあたふたし、何もせず声も出さずにいたのだが、それも関係ない様子で男は続けた。
「屍体が埋まっているなら、この美しさに納得しますよね。ここまで心を動かすものが一つの生命力の残り汁から生まれているとすれば、これまで生きた人生と共にわかる気がするんですよ。私が生きるはずだった残りの命が事故だとか、病気だとかで途中でついえたとして、それでも死体には生命力が残っている。なんとも魅力的な考えではありませんか」
作品名:桜の木の下には 作家名:晴(ハル)