『師匠と弟子と』6.5~『師匠の背中』
「ヤダヤダヤダ、さんまじゃなくちゃヤダー!」
同期の二つ目仲間がこの場面でしばしば使うギャグを思わず口走ってしまった。
その瞬間、客席から波が引いて行くのを感じた。
(しまった!)
鮎太郎からも血の気が引いて行った。
それから先は良く覚えていないが、何百遍も稽古した噺、なんとかオチまで辿り付くと、(ありがとうございました)ではなく(すみませんでした)と言う気持ちでお辞儀をし、早足で袖に下がった。
「お先に勉強させて頂きました」
師匠の顔をまともに見られなかった……むしろその場で怒鳴りつけられたら少しは気が楽になるのに……と思ったが、師匠の出囃子が鳴り始めた。
「俺の今日の高座を良く聴いておけよ」
師匠は前を向いたままそう言うと舞台の中央へ向かって歩き始めた……。
師匠の一席目は『時そば』だった。
あまりにも有名で客席の誰もが細部まで知っているであろう噺、それでも師匠が演じる調子の良い男の歯切れの良さに、客席からは絶え間ない笑いが起こる。
鮎太郎は自分の出来とのあまりの差に噺家を辞めたいとすら思った……。
だが、後半に入り、ダメなそば屋と少し抜けた男の掛け合いになると様子が変わって来た。
「へぇ、伊勢の国は津から出てまいりましたんで、津屋と申します」
「津屋とはまた縁起が……良くないな」
いつもなら後半の不味いそば屋は孫屋、それに対して『まごまごしちまうじゃねぇか』と返す……師匠がこの噺を間違うとは到底思えない、師匠はなにか新しい事をしようとしているのだ、と気づいた鮎太郎は自分の失敗も忘れ、耳をそばだてた。
「この汁が……なんだかやけに甘い汁だな」
「へぇ、お口に合いませんでしょうか?」
「いや、そう言われるとよ……そばを食って甘味も楽しめると思やいいんだ、な? 肝心なのはそば、俺っちは細いそばが食いたくて、初めてのそばやを見つけると飯食ったばかりでも食わずにはいられ……太いねぇ、これがそばかい?」
「まだ太ぅございますか? 申し訳ございません」
「いや、そばで肝心なのは腰、腰だよ! これだけ太けりゃさぞかし……ふにゃふにゃだ」
「大変申し訳ございません! 実は津では伊勢うどんを商っておりました、江戸の方の好みに合わせようと一生懸命やっているんでございますが、伊勢うどんとはあまりに正反対でして……」
「おいおい、頭を上げてくれぇな……まあな……江戸のそばとは全然違うけどな……これはこれで……ずずっ……悪くはねぇかもしれねぇな……ずずっ」
「へ?」
「味の好みなんてものは人それぞれのもんだ……ずずっ……俺ぁ、悪くはねぇと思うよ……ずずっ……ほら、その証拠に汁まで全部平らげたぜ」
「あ、ありがとうございます」
「まあ、お前さんが美味い物を作ろうと真面目にやってるのはわかるよ……出汁はきちんととってあるし、ちくわは分厚く切ってあるし、なによりそば粉の香がぷんぷんしてらぁ」
「さ、左様でございますか?」
「まぁ、確かにこのままじゃ江戸じゃうけねぇと思うぜ、でも一生懸命やってれば、いつかお前さんの味が江戸前の当たり前になるかも知れねぇよ、まあ、商いってぇくらいだ、真面目にこつこつやってらぁきっと上手く行くって」
「あ、ありがとうございます、そのお言葉を励みに……」
「おいおい、いちいち頭を下げるなよ……そばの代は幾らだい?」
「いえ、もう、結構で……」
「そうはいかねぇよ、銭はこまけぇんだ、手を出してくんな」
「へぇ」
「ひいふうみぃよぅいつむぅななはち……今なんどきだい?」
「へぇ、よっつで」
「いつむうなな……これで十六だ、あばよ」
「お客さん、お客さん、これでは頂きすぎで」
「良いってことよ、この次お前さんを見つけたら必ずまた一杯食うよ、つりはその時まで預けて置かぁ、今度は間違いなく九つにな……お馴染みの『時そば』の一席でございました」
割れんばかりの拍手が起こった。
鮎太郎も呆然としてしまうほど聞き入っていた。
『時そば』は前座にも良く演じられる噺、しかし師匠はその噺を滑稽噺から人情噺に変えてしまった。
師匠は新作落語や改作落語を否定はしないものの、自分で演じる事は今まで一度もなかった、しかし……今の一席は紛れもなく改作落語、それも見事な出来栄えだった。
そして師匠ほどの大看板になってすら、まだ新しいものに挑戦しようと言うそのエネルギーにも圧倒された。
「師匠! 今の噺は!」
高座から下がって来た師匠を迎える時は「お疲れ様でした」と迎えるのが常だが、鮎太郎はそれすらも忘れていた。
「ん? まあ、俺も少しは進歩しねぇといけねぇからな、どうだったい?」
「す、素晴らしかったです、『時そば』が人情噺になるなんて思ってもみなかったです」
「そうかい、それなら良かった」
「でも、新作や改作は演られないものだと……」
「まあ、確かにそう決めてたがな、弟子を取らない主義も変えたんだ、これからは少しづつだが演ってみようかと考えを変えたんだ」
「師匠ほどの大看板が……」
「おい鮎太郎、そいつは違うぜ、芸の道に『これで良い』って終わりはねぇんだ、高座に上がる限り勉強だぜ」
「はい、肝に銘じておきます!」
「それで良い……どうだ? 少しは迷いも軽くなったか?」
「師匠……なぜそれを……」
「梨奈に聴いたよ、もっとも、俺も気がついていたがな……お前は俺の弟子だが、俺のコピーになっちまっちゃいけねぇ、お前はお前だ、お前の芸を見つけなくちゃいけねぇ、迷うことも悩むことも勉強だ、沢山迷え、沢山悩め、それはきっと芸の肥やしになるぜ」
「は……はい……よぅくわかりました」
「馬鹿野郎、涙ぐんでんじゃねぇよ……」
そう言ってくるりと背を向けてお茶をすする師匠の背中は、暖かく、そして、大きく大きく見えた……。
作品名:『師匠と弟子と』6.5~『師匠の背中』 作家名:ST