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てっしゅう
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novelistID. 29231
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「歴女先生教えて~パート2」 第二十一話

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「そうかも知れない。信長も日本を変えようとする意欲から武士と農民たちが平和に暮らせる国家を作ろうと急いで平定しようと手荒なこともしたし、配下の武将たちにも厳しく罰したりした。光秀に恨みをかっていたと思われるわ。その辺の話は時代が近づいたら話すことにする。今は中国の歴史ね。
この頃、中央ユーラシアではスキタイ族の次に匈奴(きょうど)と呼ばれる勢力が拡大して、中国を侵略し始めたの。始皇帝は中国を統一すると、匈奴を奥地へと追い払い、防衛ラインをそれまでより北方に移設して、万里の長城を築いたの」

「万里の長城は北方の匈奴からの侵略に備えて作られたのですね。あれだけの長い防衛柵を作ることは余程の脅威だったのですね」

「前に話したけど、草原地帯の匈奴はチャリオットという馬に取り付けた戦車で、農耕地帯の中国に攻め込んできたから、ひとたまりもなかったのよね。騎馬に対抗するには、ニ、三メートルの柵を巡らせば、敵は馬を降りて戦わないといけなくなるから対抗できると考えたのよ。なのであれだけの長い柵を築いた。日本もね、飛鳥時代に朝鮮半島で行われた白村江(はくそんこう=はくすきのえとも呼ばれる)の海戦に敗れて、唐が九州に攻めてくるだろうと時の天智天皇は考えて、今の福岡県の海岸線に高い防御壁を築いたり、瀬戸内海の四国・中国地方両側に通行する軍船を攻撃するための出城を何ヵ所か築いたりしたのよ。それは以後の蒙古軍の再来襲に備えても築かれた」

「馬で戦うというのが外国では当たり前になっていたのですね。日本は国土が狭いうえに、川や谷や小高い丘や峻険な山があるので、騎馬戦が絶対的な戦い方とはならなかったという事ですね?」

「そうね、それに歴代の将軍は都を守るために、街道を広く作らなかった。東海道の品川あたりでも、横にニ、三人しか並べなかったというから、チャリオットなんていう兵器が上陸して来ても使えなかったわね。今川義元が縦に長い行列を作って都に上ったのは、そうしたことが一番の理由ね。その横を突いて信長が大将めがけて攻め込んだ桶狭間の決戦は、まさに敵の急所を一気に突いた作戦だったのよ。後に信長が京に向かう時、大津から先の比叡山の横を通る狭い街道に危険を感じていたから、その前に比叡山を焼き討ちにして壊滅させたという考証をしている学者もいるぐらい、戦略というのは間違えば命取りになるし、上手く行けば少数で大勢が倒せるの」

美穂の授業は日本史も取り交ぜて、生徒たちに興味を引かせていたようだ。