銀の十字架(クロス)
1.『銀の十字架(クロス)』オリジナル版
ヨーロッパのとある国、とある港町。
そのナイトクラブはひっそりと存在している。
派手なネオンサインはなく、店名だけを刻んだ看板。
年輪が浮かび上がった重々しい一枚板の扉。
その扉をくぐれば薄暗い照明に浮かび上がるシックな色合いのテーブルとソファ。
そして静かに流れる歌声。
そんな落ち着いた雰囲気と美味い酒、それだけが取り得の店だ。
そして、この店の専属歌手もまた同じ。
いつも決まって黒いドレス、アクセサリーも首から下げた銀の十字架一つ。
やや低めで少しだけハスキーな声は、大人の想いをしみじみと歌い上げる。
年の頃なら三十歳を少し越えたかどうか、と言うところだろう。
若さに頼った華々しさはない、しかしその華奢な背中は、ある程度の年輪を重ね、様々な経験も積んで来たであろう事を物語っている。
ピアノ弾きはまだかなり若い物静かな感じの青年。
その繊細なタッチは歌手の歌に寄り添う、抱きしめるのではなく後ろからそっと肩に手を置いている、そんな微妙な距離感を保って。
店を程良く埋めた客のほとんどは軍人だ。
それも占領国の……。
そう、この国は二年前に隣国の侵略を受け、今もその占領下にある。
そして、その時熾った火種は今や二国間に留まらず、ヨーロッパのほぼ全土に広がろうとしている。
いつ世界大戦に発展してもおかしくない、そんな時代の空気がこの国を、この町を覆っている、そんな状況下でもこの店の中だけはゆったりと穏やかな時が流れていた。
しかし、それももう時代の大きなうねりの中では波にもまれる木の葉と同じ……。
「この歌を知っているか?」
歌手が愛の歌を一曲歌い終え、暖かな拍手に包まれた時、一人の兵士が立ち上がり、勇ましい軍歌を歌い始めた。
「いいえ、あいにく存じ上げません」
「ならば今覚えろ、覚えて歌うのだ」
兵士はなおも軍歌を続ける。
客席にはしらけたような空気が流れたが、兵士がきつい目で睨み付けると、小さな声で唱和するものが現れ、歌声は次第に大きくなって行った。
「今の歌だ、本職の歌手ならばもう覚えられただろう、さあ、歌え、ピアノを弾け」
兵士は歌手に迫るが、歌手はかぶりを振った。
「いいえ、私には歌えません……ご容赦を」
それを聴くと兵士は声を張り上げた。
「なぜだ! 我が国の歌は歌えないというのか! ならば治安部隊を呼んでも良いのかな? こんな店は一ひねりで潰せるのだぞ」
その言葉に歌手は言い返すことが出来ない、街を酷く破壊された記憶が蘇る……敵国の、しかも軍歌など歌いたくない、いや、歌えない……しかし、このままでは本当に店に危害が及ぶかもしれない……。
「どうぞ……この店を壊すと仰るのならそうなさい……力には屈しましたが、心まで売り渡したわけではありませんので」
歌手の代わりに兵士の脅しに答えたのはこの店のオーナーだった。
静かな様子で、しかしキッパリと言い切った。
「良いのだな? 我々はやるといったら本当にやるぞ!」
兵士は怒りにわなわなと震えながら言い放った。
その時……。
「やめないか」
店の隅のボックスから低い、しかし毅然とした声が飛ぶ。
「なんだと!?」
怒りに顔を紅潮させて振り返った兵士だったが、その顔は見る見る青ざめて行く。
「た……大佐殿……」
「皆この店に彼女の歌を聴きに来ている……私もそうだ、その楽しみに水を差す事は許さんぞ」
「クッ……」
兵士はきびすを返すとツカツカとドアに向かう。
「勘定を置いて行け、お前に酒を奢ってやろうとは思わないのでな」
大佐が顔も向けずにそう言うと、兵士は忌々しげに札をとりだし、投げ捨てるようにして出て行った……。
床に舞い落ちたその札を拾い上げたのは大佐だった。
「すまない……あの男もあの男なりに愛国者ではあるのだ、その愛国心の発露の仕方に問題はあるが……許してやってくれ、もう騒動は起こさせないと約束するから、歌を続けてくれるかね?……」
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「一杯つきあって貰える?」
店が終わり、ピアニストが帰り支度を始めていると、歌手が二つのグラスとボトルをテーブルに置いた。
歌手の名はイレーヌ、ピアニストはステファン。
ステファンには願ってもない誘いだった。
彼は明日の朝、『森へ行く』と決めていた。
二年前の戦いに敗れた後、森の奥深く、密かに反乱軍が組織され、徐々に力を蓄えながら祖国を取り戻す機会をうかがっているのだ。
今夜が最後の伴奏……しかし、彼はイレーヌにそれを知られたくなかった、何も言わずに、いつもの通りにおやすみを言って別れるつもりだった。
しかし、彼女の方から誘ってくれるのであれば、密かに、しかし存分に別れを惜しむことが出来る。
「さっきはありがとう」
「え?」
「ピアノを弾かなかったでしょう? あなたなら一度聞けば伴奏くらいはわけなかったでしょうから」
確かにその通り、単純な軍歌くらいなら一度聴けば和音進行くらいはすぐにでも覚えられる……。
「いえ、礼を言うならオーナーにでしょう、それとあの大佐にも……僕もあの曲を弾きたくはなかっただけですよ」
「そうね……」
彼には遠くを見つめるようにする彼女の視線の先にあるものがわかる。
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かつては彼女も黒いドレスばかりではなかった、と言うより、祖国の国旗にも使われている燃えるような赤のドレスがトレードマークだった。
そして彼女の恋人、アダムは陸軍大尉だった。
彼は二年前、祖国を守ろうと勇敢に戦った。
その時、音楽を学ぶ学生でありながら、既にイレーヌの伴奏者でもあったステファンも入隊を志願した。
しかし、アダムに諭されたのだ。
『君はまだ若く、才能に恵まれている、いずれ祖国になくてはならぬピアノ弾きにきっとなれる、そもそも君が入隊してしまったら誰がイレーヌのためにピアノを弾くというのだ』……と。
そしてアダムは戦場から還らず、その日からイレーヌは黒いドレスと銀の十字架しか身につけなくなった。
作品名:銀の十字架(クロス) 作家名:ST