ライバル~風~
しばしば顔を合わせる奴がいる。
顔と名前はバッチリ一致する、あいつを見かけるとつい顔を見てしまうし、あいつが俺を見ているのにも気づいている。
だが、いまだに言葉を交わしたことはない。
それは、俺は密かに彼に対してライバル心を抱いているから、そしてそれはどうやら向こうも同じらしい。
何のライバルかって?
あまりメジャーな競技ではない、高校生の陸上競技、八百メートル。
それも、そんなに高いレベルでの話でもない。
市レベルの大会で決勝レースに進めるかどうかと言った所。
俺とあいつとは丁度同じくらいのレベルなのだ。
あいつが決勝に進んで俺が進めなければ『次は見てろよ』と思うし、逆ならたぶんあいつがそう思っていると思う。
そうやって意識しているのに言葉を交わさない、と言うのも妙な話ではある。
俺は社交的とまでは言えないまでも人見知りするような性質ではないし、話しかけるきっかけなどいくらでもある。
しかし、なんとなくこのままのほうが良い気がするのだ。
言葉を交わして友達になってしまうと、ライバル心が緩んでモチベーションが維持できなくなってしまうような……。
そして、向こうも時々口を開きそうになってやめたりもしているは、俺と同じ気持ちだからなんだろうと思っている。
高校二年の秋、そこまでの戦績は二勝二敗二引き分け。
そんなものは公式記録でもなんでもないが、俺が決勝に進んであいつが進めなかったことが二回、その逆も二回、二人とも予選敗退が二回と言う事だ。
揃って決勝レースに進んだこともなければ、持ちタイムもほぼ一緒なので予選で同じ組に入れられることもなかった、だから直接対決、などと言うと大げさだが、同じレースで競ったこともなかった。
そして、次週、今シーズン最後の大会をもって俺は部活からの引退を決めていた。
三年生になったら受験勉強に本腰を入れなければならない。
そしておそらくあいつも同じ……高校の学力レベルまで良い勝負なのだ。
一度は同じレースで決着をつけてみたいと思っていたが……。
その大会には有力選手、というより有力校が根こそぎ出場していなかった、どうやらよりハイレベルな大会と日程が重なっていたらしい。
上位が不在だから、と言うのも少し情けない話だが、あいつと決着をつけるのはこの大会しかない。
そして俺は予選二組で、あいつは四組で、それぞれ先頭でテープを切り、初めて揃って決勝に進んだ。
決勝レース。
俺もあいつも先行逃げ切りタイプだから最初から競り合うことになると踏んでいたのだが、更に先行する奴がいた。
一年生だが、ここの所目立ち始めている選手だ。
かなりハイペースで飛ばす。
とにかく俺はそいつについていくことにした、あいつも俺のすぐ後ろにぴたりとつけている。
四百メートル通過、鐘が打ち鳴らされ、先頭の通過タイムがアナウンスされた。
俺が自己ベストを出した時の中間タイムより一秒以上速い、しかし、これが最後の大会と心に決めていたので練習は普段以上に力を入れてやってきた、このまま最後まで行ける自信はある。
しかし先頭のペースは落ちずに最終コーナー、六百メートルまでそのままの順位でレースは進んだ。
そして最後の直線に入る寸前、先頭のペースが僅かに落ちた。
(ここだ!)
俺は外寄りのコースを取って先頭に踊り出た。
その時……風が変わった……。
先頭の選手のすぐ後ろで渦巻いていた風が、霧が晴れるように俺の身体を吹き抜けて行く。
七百メートル走ってきた末のラストスパート、当然苦しい、しかし、そんな中で感じた風は今まで感じたどんな風よりも爽やかだった。
すぐさまあいつが俺に並んで来た、きっと同じ風を感じているんだろう。
先頭を引いてくれていた一年生がジワリと遅れ始める。
ゴールまであと八十メートル、この風の中で二年間の決着をつける……。
おそらくあいつも同じ気持ちなのだろう、俺達二人はどちらも譲らずに持てる力のありったけを振り絞ってゴールのテープをめがけて走った。
俺たちは並ぶようにゴールした、タイムも全く同じ。
小さな大会だから写真判定というような厳密なものはないが、審判が下した判定はあいつの勝ちだった、俺は二位に終わった。
しかし不思議と悔しくはなかった、最後の最後に思い切り競い合えた、最後の最後まで勝負はつかなかった、二人倒れこむようにゴールに入った、それで充分だった……。
大会が終わり、着替えを済ました俺はメインストレートだけに設けられているスタンドに腰掛けてトラックを眺めていた。
この二年間、何度も訪れ、走ったトラック、幅跳びの砂場や砲丸のサークル……今、五千メートル決勝のラスト一周を告げる鐘が鳴り、選手の切れ目を縫うようにしてフィールド競技の器具が倉庫に片付けられようとしている。
この二年間、何度も見てきたお馴染みの景色だ。
またここに戻ってくるかどうかは決めていない、しかし、とりあえずは一旦この景色ともお別れだ。
十一月下旬、秋ももうすぐ終わる、日が暮れ始めると夜の訪れは早い……そろそろ腰を上げようか……。
その時、不意に缶コーヒーが差し出された。
「高橋……」
「牧田……」
「初めて名前を呼んだな」
「君もな……コーヒー、ありがたく頂くよ」
「ああ……」
俺たちは並んで腰掛けて缶コーヒーを飲んだ、砂糖の甘みが疲れた身体に沁み、コーヒーの苦味が一抹の寂しさを抱える心に沁みて行く。
「……一年前くらい前だったかな、メンバー表にいつも同じ名前があるのに気がついたのは」
俺が半分呟くように言うと、あいつも小さく頷いた。
「俺も大体一緒だった」
「不思議な関係だったな、いつもいるのを知ってるのに口もきかないで……」
「なんだか、口をきいちゃうとライバルじゃなくなるような気がしてさ」
「俺も同じだよ」
「ライバルったってレベルは知れてるのにな」
「ははは、確かにそうだな」
初めて顔を見合わせて笑いあった。
「ああ、だけどやっぱり励みになったよ」
「俺は高校での陸上は引退だ、受験に向かうよ」
俺が前を向くと、あいつも同じように前を向く。
「やっぱりな……そう決めてるように感じたから声をかけたんだ……俺も同じさ」
「最後の勝負、負けちゃったな」
「あんなの勝ち負けに入らないさ、判定がどっちに転んでもおかしくなかった」
「でも判定は判定さ、優勝おめでとう」
「有難う、今日の勝負はとりあえず俺が預かっておくよ……大学でも続けるのか?」
「それはわからないな、どの大学に行くかにもよるしな……工学部志望だし」
「そうだな、俺もわからないや……でもいつかまた会うかもな」
「ああ、なんか不思議な縁があるような気がしてるよ……」
その後、俺は工学系単科大学に進み、陸上部がなかったこともあってトラックに戻ることはなかった。
牧田がどうしているのかは知らない。
不思議な縁だったと思う、それもあの二年間だけの縁だったようだ。
もし勝負の女神がいるとしたら、ちょっと悪戯してみただけ、女神自身すぐに忘れてしまうような小さな悪戯を……。