夢の中
「しかし1回目あなたに会った時、私はあなたが犯人だとは思えませんでした。私はこれまで何人もの極悪人を見てきました。やくざの本部に、モグラとして潜入捜査をしたこともあります。背中の入れ墨は、その時ほったものです。ところがあなたは、悪人とは対極にいる人の雰囲気を醸していました。周りの評判もすこぶる良い。あなたが犯人だとは、私は信じられなかった。」
黒岩は続けた。
「しかし、2度目あなたに会った時、あなたは嘘をつきました。田中とは連絡をとっていないと。そういったあなたの表情には、嘘をついているようなそぶりは全く見えなかった。しかし、田中の電話に残っていたあなたとの会話の録音記録では、あなたと田中は会うことになっていた。そこで私たちはあなたが事件に何らかの形で関わっていると確信したのです。部下の柿本に、あなたをつけさせたりもしました。」
岸神は話を聞きながら自分の意識が遠くなっていくのを感じた。まるで夢でもみているようであった。岸神は自分が闇に吸い込まれていくのを感じた。
「しかし岸神さん、あなたの部屋が荒らされた理由だけはわからない。あれは我々がやったのではない。」
柿本が横から付け加えた。しかし、その声は遠くで聞こえる学校のチャイムのように岸神の耳を通り抜けていった。岸神は周りの景色が遠くなっているのを感じた。柿本の声が遠くに聞こえた。田所は、肩を落としてうなだれていた。ふと前を見ると、1匹の狼がいた。岸神は、彼らが危ないと思った。それを伝えようとしたが声が出なかった。狼は柿本に襲い掛かった。彼の腹を食い破った。それに気づいた黒岩が拳銃を取り出した。しかし、狼の方が動きは速かった。黒岩は腕を狼に噛み千切られ、拳銃を離した。面談室での異常事態を悟って外の警察が入ってきた。しかし、狼は狡猾だった。黒岩ののど元に牙をたて、彼を人質にした。
岸神はこの狼見たことがあった。この狼は、岸神であって岸神でないものだった。狼は岸神の闇そのものだった。岸神はその存在を認めることが怖かった。だから目をそらし、正義という幻影に酔ったのであった。
正義とは希望そのものであった。不条理な世の中ですがるべき命綱であった。しかしその綱の先が、どこにつながっているかはわからない。
正義とは灯台の灯であった。船は真っすぐに灯だけを目指して進む。だからこそ、灯の周りを包み込む暗黒の深さを知る由もなかった。
正義とは秩序であった。無秩序な世の中で、人々を欺く詭弁だった。その秩序は、おおくの犠牲を必要としていた。
岸神は狼を見ながら、自分が「何か」だったと気づいた。「何か」こそ、正義の心であった。正義とは麻薬なのかもしれない。闇から目をそらすための幻に過ぎなかった。しかし、岸神は、最後に現実を見ようと思った。岸神の頭に父の後姿が浮かんだ。その姿は、岸神に勇気を与えた。岸神は落ちていた拳銃を拾うと、田所にごめんといった。そうして拳銃の引き金を引き、狼の頭を打ち抜いた。
ある満月の夜だった。田所は病院からの帰り道であった。田所は岸神のことを思い出していた。岸神が自殺する間際、ごめんといった時の表情が忘れられなかった。岸神は正義の人であった。しかし、その正義は、彼の闇の深さを指し示すに過ぎなかった。空を見ると、満月が輝いていた。暗黒の世界をただ一人で照らしていた。その光は今にも闇に吸い込まれそうだった。それでも、月は確かに存在した。田所は、ばかやろうとつぶやいた。