水中花 終
恭介の進行によって作られた風によってシャボン玉達の自由な浮遊は奪われ、大樹のテリトリーから抜け出ていく。ただ、その様子が囲いからの解放に思え、これが自由な浮遊なのかもしれないとほんの少し残っていた意識でそう考えていると、抜け出た瞬間に雨に刺されたシャボン玉が次々に割れていく。その瞬間をスローモーションで見たならば、色鮮やかな最後の破裂が広がっているのだろう。見事な美しさだろう。それを見ることができないのが、ほんの少し無念であった。桜の散り際を美しいと思う、日本人らしい感性が無我夢中な未体験の追及の途中で現れ、その未知の感情の追及という行動に付随してきた美しさに、衝動の真の意義を見出した。
次々に消えていくシャボン玉のおかげか、せいか、水中花は姿を鮮明にせざるを得なくなっていた。その中に入り込んでいるものは見えない。きっと美しい透明なものなのだろう。色も形も必要がない。まだ知らない何かがあそこにある。
思えば、なぜここまで水中花に固執しているのだろうか。おそらく自身の空想でしかないあの球体に、何を見ているのだろうか。
冷静な思考ははるか昔に放棄していたのだろう。先述のようなことはまったく考えもしない。
雨の中を掻き分けて、濡れて、濡れて、濡れて重くなった服が邪魔だと感じ始めて、苛立ちを覚えると、自分の走りと比例して遠ざかる水中花に気づいた。周りに浮遊するシャボン玉、最後の一つが破裂を迎えた時、一瞬その比例が止まった。その一瞬の停止に干渉されない恭介の走りによって水中花と恭介の距離は一気に狭くなり、ついに恭介は、動きを止め、雨に濡れた球体に触れた。
溢れ出す透明な未知。消えずに雨に溶け込むと同時に…。
「どうかされましたか」
恭介より高いところから声が聞こえた。ぽつぽつと声の向こう側に音が聞こえる。そこにはとてもかわいらしい女性がいた。美人ではない。かわいらしいのだ。
「いえ、なにか」
「雨の中神社で倒れていたらびっくりしますよ。お連れの方は?」
彼女がそういって自分の状態をやっと把握した。雨に濡れた服に土が付き、かなり汚れている。その反面、心はやけに透明で、綺麗な鼓動で静かであった。
「とりあえず、どこか屋根のある所に行きましょ。ここじゃ、乾きもしませんので」
そういわれて肩を抱えられてゆっくりと進む。体に力が入らず、全身を彼女に預けた。綺麗な彼女の服が汚れていく。傘にささる雨が少なくなってきた。
屋根のある所に座り込んで雨が踊る地面を眺めていると、少しばかり記憶を取り戻した。激しい衝動の結果はどうやら激しい虚無のようだ。記憶には穴が開き、感情は平らであった。雨が止み、晴れた空にまぶしさを思うのは実に正の感情で、止み始めた雨はこれをもたらすだろう。しかし、今の恭介は正反対の負の感情で満たされていた。薄い記憶がそういっている。しかし、その負の感情に身を任せ、泣き叫ぶにはそれに付随する記憶が少なかった。ただ、完全ではない記憶の消去がこの虚無を引き起こしているように思える。
記憶を消せば、それまであったものの影すらそこになくなっているわけだから、失った、などとは考えない。そこに虚無感は存在しないだろう
誰かの言葉が頭によぎり、その直後、思い立ったかのようにスマホの一つ携帯番号を消した。繰り返された暴力は記憶の欠如という形で一段落をつけた。
いつの日か、また思い出す日まで、浮遊するのにさえ気づかずに過ごすのだろう。