涙をこえて。
少し大きな声を出してしまった。
その瞬間、佳子さんが、目を覚ました。
そして、目を丸くしていた。きっと、お互いに。
佳子 「石井くん?」
まずい、見つかっちゃった。
佳子 「どうしてここにいるの?」
それ、こっちの台詞なんですけど。
僕 「あの、泊まり明けでロマンスカーに乗ったら、佳子さんいて、驚いていました」
佳子「ああ、来てくれたのね。よかった」
佳子さん、何を言っているんですか。きっと寝ぼけているのだろう。
僕 「あの、偶然なんです。僕、最初後ろの席にいて、席を代わったら佳子さんいて」
僕がそこまで言うと、ロマンスカーは、軽やかに町田を出発した。
うお、降りられなかった。
少しあわてる僕を見て、佳子さんは、目をぱちくりさせた。
クリーム色のふわりとしたショールで、少し口をふさぐようにしてから、
僕を見て、笑った。
佳子 「ま、いいじゃない。こんなこともあるのね」
僕 「はい。」
佳子 「のど渇いちゃった。あ、車内販売きた。」
後ろを振り返ると、
ちょうど販売員の女性がワゴンを押して訪ねてくるところだった。
昔のロマンスカーは、別の場所で淹れたオレンジジュースを、
お姉さんがうやうやしく持ってきてくれていたけれど、
つい最近、それが廃止されてワゴンサービスに変わった。
昭和のころにはできていたことも、
今はいろいろな事情の変化でできなくなっているのかもしれない、と思った。
佳子 「すみません、オレンジジュース2つ」
え、オレンジジュース?しかも2つ?
佳子 「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました。」
おどけるように丁寧に言う、佳子さん。
佳子 「私、ロマンスカーのオレンジジュース、昔から好きなのよね。
パパが昔よく買ってくれたの。
パパはジュース買わない人だったのに、ここでだけ、買ってくれたの」
僕 「そうなんですか」
僕はまた、驚いた。
母親と一緒に飲んだ、僕にとって思い出のオレンジジュースが、
佳子さんにとっても、思い出のオレンジジュースだなんて。
僕は思わず、母親と飲んだオレンジジュースの話をした。
すると、佳子さんはまた目を丸くして、「そうなの。似てるね。」と言ってくれた。
テーブルの上に置かれたキラキラとしたぶ厚いグラスに入ったオレンジジュースに、
佳子さんとほぼ同時に、ストローをするりと挿して、きゅっと一口飲んだ。
佳子 「あー、おいしいね。」
僕 「はい。」
僕も、一口飲んだ。ものすごく、おいしかった。
母親と飲んだ昔の日のことが、なぜか急に思い出されてきた。
佳子 「お母さん、きっと、すごく苦労してたんだと思うよ。
生きてたら、よかったのにね。」
そう言うと、佳子さんは、少し目に涙を浮かべていた。
僕 「そうですね。ありがとうございます。」
僕は、そう言うのが精一杯だった。
窓の外を見ると、
ロマンスカーは海老名と厚木を結ぶ相模大橋のあたりを通過していた。
桜の木が、寒々とした曇り空の下に立っていた。
いきものがかりの「SAKURA」という歌に
小田急線の窓に映る桜、とあったけど、あれかな。
あの歌も切ないよな。
そして、今ここでまた佳子さんに再会してしまった僕も、切ない。
しかも、佳子さんが家族の話をすると、さらに切ない。
そんなことを思っていると、僕も泣きそうになってしまった。
すると、佳子さんは、その雰囲気を察知したようで
佳子 「そういえば、石井くん、どこ行くの?」
と努めて明るく聞いてきた。
僕 「あの、箱根です」
佳子 「あらあ」
「私も箱根よ」
僕 「箱根好きって、言ってましたよね」
佳子 「そうそう。箱根のてっぺんまで行くのよ。硫黄泉好きで」
僕 「え!箱根のてっぺん? あの、ひょっとして、峠の上ですか?」
佳子 「そうそう、峠の上のホテル。あそこ、私好きなのよ」
好きなものが一致しているというのは、恐ろしいもので、
こんなことがあるのか、と僕は思った。
僕は、もう仕方ないと思い、白状した。
僕 「僕も、峠の上のホテルに行くところなんです」
佳子 「え、そうなの?」
「ふふ、よかった。」
佳子さんは、ちょっとほっとしたような笑みを浮かべていた。
僕にはそれがよくわからなかった。
僕 「え、よかった?」
僕がそう言うと、佳子さんはわずかに考えるような間を空けた後、
切り返すようにこう言った。
佳子 「だって私、地図が読めない女だから、
あそこにバスで行くの苦手でね、
いつも別のバスに乗っちゃうのよ。石井くんいれば安心ね」
確かに、峠の上のホテルに行くには
箱根湯本の駅前にたくさん来るバスの中から
行き先を選んでバスに乗り、
そして時には乗り換えないといけないから、
人によっては、迷うと思う。
僕は、そこにまで行く案内人として喜ばれたことに、
なぜか少し釈然としない思いがあったものの、
まあ、喜ばれないよりかはいいかと思い、
「僕も、うれしいです。」とひとまず答えた。
すると佳子さんは「私も」と言って、
まるで少女のような純情あふれる笑顔を
きらりと横顔で見せた。
僕の胸に、その横顔がきゅきゅっと刺さった。
佳子さんの横顔は、僕が初めて見る横顔で、甘酸っぱい薫りがした。
僕の心の中にも、オレンジジュースが注がれたようだった。
そんなふうに、心に染み入ってくる佳子さんを前に、
僕の話せる言葉は、限られていた。
僕 「それにしても、偶然ですね」
そんなありふれた一言を言ってしまった僕に、
佳子さんは少し冷たい返事をした。
佳子 「あら、そう?」
僕はその返事が少し冷たかったことと、
かなり意外だったこともあって、少しあわてて言い返した。
僕 「だって、同じ日に、同じ電車で、同じ箱根の、同じホテルに行くなんて、
おかしいじゃないですか。ありえないって、普通思いますよ」
佳子「そうかな」
佳子さんは、なおも冷たかった。
佳子「よく考えてみたら?
だって、石井くん、峠の上に行くのって、珍しいの?」
僕 「いえ、月に1度くらい行ってます」
佳子「土日にも行っているの?」
僕 「いえ、きょうみたいな、平日の、朝だけです。込んでるから」
佳子「私もだいたい同じね。月に1度くらい、平日に行っているんだよ。
土日は教室が休めないから」
僕 「そうなんですか」
佳子「きょうが何回目くらいの、峠の上?」
僕 「そんな、数えたことないです」
佳子「私も。数え切れないくらい同士なんだから、そのうち一致するのも
おかしくないんじゃない?」
僕 「うーん、そうなんですか」
佳子「そうそう、ロマンスカーでロマンス!かもね(笑)」
ロマンスカーでロマンス!
なんて昭和なことを言ってくれるんだ。
ちなみに、ロマンスカーという名前は
昭和24年に、映画館に設けられた恋人同士のための2人がけの座席
「ロマンスシート」に似た座席を採用した、ということで付けられたものだ。
そんな古い話を、鉄道好きな僕は、知っている。