涙をこえて。
ずっとずっと言いたかった、この言葉を。
「早稲田に合格できたのも、母親が亡くなったのを乗り越えられたのも、
全部、全部、佳子さんのおかげです。」
「でも、あのとき、僕が子供で、佳子さんにお礼がちゃんと言えなくて、
好きであることも、きちんと言えなくて、僕は本当に後悔していました。」
「でも、きょう、代々木に戻ってきて、ここで会えて、
昔と同じように話せて、同じように笑えて、
同じ時間が過ごせて、本当にうれしかったです。」
「僕、23年前の忘れ物を、取り戻すことができたみたいで、
僕は、本当に、うれしかったし、楽しかったです。」
「きょうは、本当に、ありがとうございました!」
頭を下げて、ゆっくり、上げて。
そこで初めて、僕は、佳子さんの顔を、まともに見た。
佳子さんは、目を見開いたままだった。
そして、心なしか、いや、確実に、青ざめていた。
まずい。
僕、なんて一方的なことを言ってしまったんだ。
僕の悪い癖だ。
何かに有頂天になってしまったとき、一方的になる。
僕は、ものずこく悔やんだ。何かフォローしなきゃ、と思って、口を開こうとした。
すると、佳子さんが、先に口を開いた。
「あのね」
「あのね」
「わたしも、石井くんのこと、好きだったんだ。」
・・・いま、何て言った?
僕は、目の前が真っ白になった。
比喩ではなく、本当に真っ白になった。
そして、頭の中には、
NHKがめったに放送しない「臨時ニュース」の開始を告げる、
鉄琴のチャイムが繰り返し鳴り響いた。
「わたし、この人のために何かをやってあげたいって思ったのは、
石井くんが初めてだった」
「それって、好きってことなんだって、あとでわかったんだけど」
「それに、私は女子中、女子高だったから、
男の子とどうしたらいいか、あのとき、まだ、わからなかった」
「わかっていたら、もうちょっと違っていたかもね」
「私もきょう、23年前が戻ってきて、うれしかった」
「わたし、この人のことを好きだった」
「ありがとう、うれしかった。ありがとう…」
佳子さんの立て続けの言葉に、僕はひるまず、何かを答えようとした。
僕は、昔から、誰かから何か言われて、言い返せないということはなかった。
以前、坂の上テレビに総理大臣が来て毒づかれたときも、言い返した。
しかしこのとき、佳子さんが、あの佳子さんが、
あまりにも大きなことを言ってくれたので、
僕は、言うべき言葉が見つからなかった。
どうしよう。どうしよう。
情けないことに、言葉の代わりに出てきたのは、涙だった。
僕は両目から、大粒の涙をボロボロこぼしてしまった。
「あ、あの・・・」
それを見た佳子さんは、気を取り直したように、少しお姉さんらしい笑みを浮かべた。
「ほら、女の子の前で、泣いちゃダメだよ」
そう言って、そっとハンカチを差し出してくれた。
そのハンカチが、強烈だった。
ハンカチからは、予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれたときに薫った
あの、佳子さんの匂いが、これでもか、これでもか、というほど、迫ってきた。
全く同じ匂いだった。なつかしく、やさしい匂いだった。
「絶対にこのハンカチを汚してはいけない」
僕はそう固く心に誓い、涙を拭くふりをして、
ハンカチは使わず、下をしばらく向いて
涙が止まるのを待った。
少し経って、ようやく顔を上げた。
すると、驚きの光景が広がっていた。
佳子さんも、滝のように、泣いていた。
僕は、ハンカチをとっさに返した。
僕 「すみません、泣かせてしまって」
佳子 「ううん」
僕 「すみません」
佳子 「・・・」
僕 「あの」
佳子 「わたし、前ね、倒れて、苦しくて、記憶が薄れた時期があったの」
「というか、正確に言うと、記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、
思い出せる思い出が少なくなっていたの」
「それが苦しいの、悲しいの」
「でも、この前から、石井くん一生懸命話してくれて、
私も、少しずつ思い出すきっかけをもらって、思い出して、
さっきの一言で急にパーンと開けて
予備校での思い出がぐるぐるって巻き戻されてきたの」
「思い出が少なくなっていく自分が、ディティールしかない自分が
わたし、自分が死んでいくみたいで、悲しかった」
「でも、いま、大事なことを思い出せた」
「私にも、こんな大事な時代があったんだなって」
「人にやさしくしたり、好きだったりしたころがあったんだって」
「私も、生きていたんだなって」
「ありがとう、石井くん」
僕は、息を飲むばかりだった。
佳子さん、やっぱり、めちゃくちゃ苦しかったんだ。
つらい経験をして、若いころの思い出が思い出せず、苦しんでいたんだ。
この、若く、つややかな風貌からは全く想像できない、
想像を絶する苦しさがあったんだ。
僕はうなだれるばかりだった。
僕 「そんなにつらい思いをしていたって知らずに、申し訳ありませんでした」
佳子 「ううん。いいの。大事なこと、思い出せたから。ありがとう」
「あたし、若い頃が、帰ってきたような気がして、うれしい」
ようやく、佳子さんに少し笑顔が戻った。
涙ではらした赤い目と、突き抜けるような色白の微笑みと。
よかった。佳子さんが笑ってくれて、うれしかった。
僕はとても、うれしかった。
その後、僕は佳子さんと、代々木駅に向かった。
僕はなるべく、ゆっくり歩いた。
すると、佳子さんはふと、鋭い質問をしてきた。
佳子 「ねえ、もし、私たち、つきあっていたら、どうなってたと思う?」
僕 「うーん…」
「申し訳ないんですけど、うまくいってなかったと思います。
僕は子供だったから、どう進めていいかわからなかったと思うし」
佳子 「うん。そうだよね。私も子供だったから、きっとうまくいかないよね」
僕 「でも、恋ってうまくいかないことがあってもいいって、
きょう、思うことができました。」
「あと、何年も経って、ようやく日の目を見る恋もあるって、知りました」
佳子 「そうそう。恋は愛とちょっと違うからね」
「愛にならない恋って、たーくさんあるけど、
それがきっとどこかで役に立ってるから、
人生っていいんじゃないかなあって、思う」
僕 「そうなんですか」
佳子 「うん、恋にはだいぶ鍛えられたからね」
僕は、少し考えた上で、少しおどけて言った。
僕 「え、すると佳子さん、そんなにたくさん恋をされたんですか!?」
佳子 「さあーね(笑) 広報を通して聞いてくださーい(笑)」
また、笑った。しかも、私をありったけの上目遣いで見ながら。
僕の身長が178センチなので、佳子さんとの背の差は23センチ。
近くもない、遠くもないこの間。ここに、すばらしい時間が流れていた。