涙をこえて。
僕は、すっかり高校生に戻って、チューターの佳子さんに教えを請うていた。
敬語を使わないというルールはもう破られていたが、
佳子さんは問題を出しているというシチュエーションなので、
そこは突っ込んでこなかった。
佳子「いまの3つは、ダメな話じゃないけど、普遍的な話よね。
あたしが聞きたいのは、どんな話か、わかる?
もっと、具体的な、世界でひとつしかないような、話」
さらに問題文の難易度が上がった。
どうしよう、どうしよう。僕は心の中でオロオロし始めていた。
しかし、ここでオロオロしても仕方ない。
何を言えば、一番、佳子さんにヒットするのか。
いや、そう考えるから、ダメなんだ。
そうだ、僕と佳子さんだけにわかる話を、しよう。
僕はそう思い、切り出した。
僕 「佳子さんって、紅白歌合戦みたいですよね?」
佳子「紅白?」
僕 「そうです」
佳子「どこが?」
僕 「いまの紅白って、『今』と『昔』と『大事』で構成されているんです。
昔の紅白は『今』だけで構成されていたけれど
いまは音楽の歴史が積み重なって、世の中が複雑になったことで、
『昔』が何かのかすがいになることが、昔より多くなりました。
そのために、紅白は『昔』という要素を入れて、共感を呼ぶようになりました。
その上で、最近は『大事』という要素も入れて、
歌を通じて大事なこと、たとえば災害からの復興とか、
人のつながりの大切さを伝えようとしています」
ここで僕は、少し息を吸った。
僕 「僕にとって佳子さんは『昔』であり『大事』を教えてくれる存在であり、
そしていま、『今』になりつつあります。
僕はもともと紅白が大好きで、いつも年神さまを迎えるような気持ちで
毎年見ているんですけど、佳子さんはまさに紅白、年神さまだと思います。
僕の大事な、そしてこの世でただひとりの神様です!」
僕は佳子さんに、思い切ってそんなニッチな話をした。
すると、佳子さんは目を丸くした後、「ふふふ」と笑った。
そして「年神さまだなんて、やだなあ」とかわいい拒否反応を示した。
そこで僕は、食い下がった。
僕 「いえ、佳子さんは、やっぱり僕の神様です」
佳子さんは、少し微笑んだ。
佳子「かみさまもいいけど」
「かみさんの方が、もっと、いいかな」
暗がりの中、色白の顔のほほが、一瞬にして桜色を帯びた。
そのあざかやかな場面に、僕は胸を焦がした。
すると、佳子さんの目に、少し涙が見えた。
佳子 「よく解けました。これで、入学ね。」
僕は目を丸くして、佳子さんを見つめた。
佳子さんも、ぼくをじっと見つめてくれた。
僕は念のため、確認した。
僕 「きょうは『ダア、シャリヤス!』は、ないの?」
佳子 「ない、よっ」
その一言を合図に、僕らの距離は、ついに、なくなった。
ニアミスを繰り返した末、
神様が不手際で僕にぶつけてしまった佳子さんという彗星。
その美しい、女神のような彗星の核心に、僕はついに到達した。
23年という時の流れは、深い意味に、昇華した。
翌朝の訪れは、ずいぶん遅かった。
僕が目を覚ますと、佳子さんも、目を覚ました。
僕 「おはよう」
佳子「おはよお」
なんだか、恥ずかしい。
すると、佳子さんはもっと恥ずかしい話をした。
佳子「ワンコちゃんって、あたしの匂い、好きでしょ」
僕 「ええっ!」
佳子「しかも、昔から」
僕 「えええっ!」
なんだ、佳子さんに、僕が佳子さんの匂いが好きってこと、
見破られていたのか。
しかも、高校生のころから見破られていたのか。
僕 「なんで?」
佳子「そんなの、すぐわかるわよ。だって高校生のときから
私が近づくと、鼻をひくつかせていたじゃない」
僕 「えっ、そんな」
僕としては、バレないようにやっていたつもりだったが、
佳子さんにはすっかりお見通しだったようだ。
佳子「1月に再会したとき、代々木のバーガーでハンカチを渡したでしょ」
僕 「うん」
佳子「あのときも、ワンコちゃん、泣きながら、
鼻をひくつかせていたのよね。
その様子が、おかしくて、なつかしくて、あと、かわいくて。
なんでこの人、こんなにあたしに一生懸命なんだろうって。
思わずあたしも、泣いちゃった」
ええ、あそこで滝のように泣いたときは、そう思っていたんですか。
佳子「そう、で、それもあって、鼻が利くイヌ、
つまり、ワンコと命名したのよ」
僕 「ええーっ」
まったくもう、恥ずかしいったらありゃしない。
僕が布団で顔を隠そうとすると、
佳子さんは、すかさずフォローを入れてきた。
佳子「でもね」
僕 「なあに?」
佳子「あたしも、ワンコちゃんの匂い、大好きなんだよ」
僕 「え、そうなの?」
佳子「そう」
僕 「いつごろから?」
佳子「予備校のときから、ずっと」
僕 「ええっ」
佳子「実はあたしも、ワンコちゃんの隣の席で勉強を教えるのが、
楽しみでした」
そうなんだ。そう思ってくれていたんだ。僕は急に、うれしくなった。
僕 「そうなの?」
佳子「うん」
僕 「えっと、僕の匂いって、どんな匂い?」
佳子「うふ」
「お父さんに、抱っこされたときの匂いかな」
「お父さん」というのが、亡くなった養父さんのことなのか、
あるいは、じじのことなのかはあえて聞かなかった。
でも、佳子さんが、僕をお父さんになぞらえて思ってくれていたことに、
僕はほんのりとした喜びを感じた。
昔、何かの本で読んだことがあるが、人は遺伝子レベルで
惹かれる異性の匂いというのがインプットされているという。
また、匂いに引き寄せられて、
知らず知らずのうちに距離が縮まる男女もいるという。
僕らはやはり、見えない糸で結ばれていたのかもしれない。
佳子「あとね」
僕 「なあに」
佳子「声に、引き寄せられたような気がする」
僕 「声?」
佳子「そう。ワンコちゃんの声」
僕 「そうなの?」
佳子「うん。なんか、ワンコちゃんの声、響くんだよね、心に」
それを言われて、僕は佳子さんの最初の電話のことを思い出した。
少し甘く、かすかにかすれた声。
それを聞いてしばらくしてから、
僕は急に、悪寒がするような感じがした。
突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。
でもそれは悪い悪寒ではなく、
あまりにもすごいものを聞いてしまったときに来る、
いわば感動的な悪寒だった。
近い表現に、鳥肌が立つというものもあるが、
鳥肌どころではなく、全身がうち震えるような感覚だった。
僕 「僕も、実は最初の電話で、佳子さんの声だってわかったときに、
ものすごく震えたんだ」
佳子「そうなの?」
僕 「うん。最初はあまりにも久しぶりでわからなかったけど、
話しているうちに、急によみがえってね。
声で佳子さんがよみがえってきたんだ」
佳子「へえー」
坂の上テレビのアナウンサーが言っていたが、