涙をこえて。
湯守「あの」
すると、湯守さんが僕を引き止めた。
僕 「何ですか?」
湯守「今後どうぞ、よろしくお願いいたします」
何がよろしくなのか、僕にはすぐにわからなかったが
たぶん、彼氏のふりをしているから今後も来てくださいね、
という意味なのだと捉えた。
僕 「いえ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」
僕はまた会釈をした。
湯守「これから、ですぞ」
湯守さんは、念押しをするように、一言言った。
僕 「はい」
僕は短く答えて、露天を去った。
浴衣を身にまとって、脱衣場を出た。
すると、意外なことに、ほぼ同じタイミングで
佳子さんも女湯の脱衣場から、飛び出してきた。
僕 「おっ」
佳子「あら」
僕 「同じタイミングだったね」
佳子「うん」
そこで、僕らの間に少し間が生じた。
次に何を言ったらいいのか、
ノボせていたせいなのか、すぐに言葉が出てこなかった。
突っ込みの早い佳子さんも、なぜか何も言わなかった。
僕 「行こうか」
佳子「うん」
僕はあまりにも平凡な一言で会話を再開し、部屋へと向かった。
しかし、この平凡な一言が、かえって僕と佳子さんの間に
言い知れぬ緊張感をもたらした。
なんでまた、緊張してきたのだろう。
その理由は、歩いているうちにわかった。
僕が緊張しているというより、佳子さんが緊張しているからだ。
佳子さんは普通、あごを上げずに話をするが、
このときの佳子さんは完全にあごが上がっていた。
長い廊下に、2人のパタパタという乾いたスリッパの音だけが響く。
そして部屋に着いた。僕は鍵を開けようとした。
しかし、うまく開かない。僕も、なぜか焦っていた。
ガチャガチャ繰り返していると、
「貸して」と言って、佳子さんが手を伸ばしてきた。
佳子さんの右手が、僕の右手に、触れた。
「ひやっ」
冷たくないのに、なぜかひやっとした、不思議な感覚がした。
まるで、何かに飲み込まれるような感覚だった。
体中に、震えるように電流が走った。
佳子さんが鍵を開けると、僕たちは少し離れた場所で背中合わせになり、
無言で服を片付けたりした。
片付け終わると、背中合わせのまま、僕はつぶやいた。
僕 「寝ようか」
佳子「うん」
佳子さんは、短く返事をした。
その返事を受けて僕は、部屋の電気をふっと消した。
非常灯のような行灯のほのかな明かりを残して、部屋はほぼ闇となった。
僕と佳子さんは、大そうな掛け布団の中に、潜り込んだ。
佳子「ねえ」
僕 「うん」
佳子さんは枕の上に頭を載せ、僕の方を向いた。
僕も枕の上に頭を載せ、佳子さんの方を向いた。
僕らの間の距離は、20センチ足らずだったと思う。
再会するまでにかかった年の数よりかは小さくなったが、
それでも、初めてこの部屋に泊まったときとは、
同じくらい距離にとどまっていた。
この距離は、今夜さらに縮まるのか。
僕は一瞬そう思ったが、別に今夜でなくてもいい、とすぐに思った。
僕の希望は今夜かもしれないが、佳子さんの希望は今夜でないかもしれないからだ。
相手のことを考えないと、どのみち、ズレていってしまう。
僕はそう思ったので、佳子さんともう少し話をしたいと思った。
僕 「佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「僕、佳子さんにまた会えて、本当によかった」
佳子「あたしも」
僕 「もし、佳子さんに会えてなかったら、僕はダメだったと思う」
佳子「そう?」
僕 「うん。だって、人が生きていくうえで大事な、縁とか思い出とかを
思い起こさせてくれたから」
佳子「そんな、あたしは大したことしてないわ」
僕 「そんなことないよ。本当にありかどう」
佳子「ふふ。でも、あたしによくついてこれたよね」
僕 「よく?」
佳子「そう。だって『問題文は最後まで読まないと、ねっ』みたいなことを
何度も言われたら、普通はプライドズタズタなんじゃない?」
僕 「うん。でも、僕のプライドなんて、佳子さんの前では大したことないから」
佳子「まあ」
僕 「こんなに一緒にいられて、うれしい」
僕がそう言うと、佳子さんは黙った。
あれ、何か変なこと言ったかな、と思っていたら
佳子さんが急にきりりと口を開いた。
佳子「じゃ、次の問題です」
僕 「え、次の問題?」
佳子「そう」
僕 「あの、まだあるの?」
佳子「まだ、あるのよ」
僕 「僕、佳子さんっていう問題文、ずいぶん長すぎるよ!難しすぎるよ!
どこまで奥が深いんだよ!と思ってたんだけど、まだなの?」
佳子「まだよ」
僕は少しがっかりした。
いったいいつになったら、佳子さんに手が届くのだろう。
でも、がっかりしても先に進まないので、僕は前を向くことにした。
僕 「じゃあ、問題出して」
佳子「はい、じゃあ行くね」
そう言うと、佳子さんは頭を少しだけ遠ざけた。
佳子「今の時代、恋愛なんて、面倒くさいだけだという人もいますが、
どうして人は人を好きになった方がいいのでしょう、か。」
本当に問題文なんですね、と僕は感心してしまったが、
なかなか難しい問題だ。
でも、この問題に答えないと、僕の人生も先には全く進まないと、僕は思った。
僕は、ありったけの思いを込めて、話すことにした。
僕 「人間は、長く生きていると、どんどん過去が増えていきます。
その分、未来が、少なくなるんです。
だから、過去を共有できた方が、楽しくていいんじゃないかと思います。
一緒に過去を共有できる相手がいるかいないかで、
人生って大きく変わってくると思うんです。
それに、過去の教訓から、未来につながることがたくさんあります。
だって、歴史は結構な部分が繰り返しなわけだし。
だから、佳子さんの過去と僕の過去をつないで、
ともに未来に進めれば、きっと乗り越えられると思います」
僕としては、結構いい答案を書いたつもりだった。
しかし、佳子さんの採点は、辛かった。
佳子 「それだけ?」
げっ、これだけだとダメなのか。じゃあ、もうひとつ。
僕 「いえ、まだあります。
一人で感じる幸せって、僕は限界があると思うんです。
楽しさは安定的だけど、楽しさの最高記録って、
たぶん更新されることはないんですよね。
それはたぶん、自分だけの好みのパターンの中にとどまっているからです。
それが、2人でいると、
自分だけの好みのパターンでは絶対出会えなかった、
新たなパターンに出会えたりすると思うんです。」
さあ、どうだ。
佳子「それだけ?」
ええ、これでもダメなのか。
僕 「いえ、まだあります。
愛は将来の保障がない、という点では、
今の社会不安と同じみたいに見えますが、
でも、愛って過去に裏打ちされ、
それが将来にも利益をもたらすという点で
社会不安とはちょっと違う、
大きなプラスの要素を持っていると思うんです」
佳子「それだけ?」
うう、だいぶネタが少なくなってきたぞ。
僕 「まだ、ダメですか?」